はだしのゲン』とマンガ規制の経済学

『電気と工事』2013年10月号掲載の元原稿

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 松江市教育委員会が、マンガ『はだしのゲン』(中沢啓治作)の学校図書での閲覧制限(同書の後半部分)にしたことが、国内で大きな話題をよんだ。今回はマンガと規制の問題について簡単に考えてみたい。
 『はだしのゲン』は、広島の原爆による被災を中心に、少年ゲンとその家族の戦中と戦後間もない頃の生活を描いたものだ。特に前半の第一部は原爆投下前後の様子を描いていて、そのリアルな描写と子供たちの無邪気な生活との対照は、かなりの鮮明な読書経験になるだろう。国際的な評価も高く、米国をはじめ多くの国で翻訳されて読まれている。規制の対象となっている後半は、ゲンたちの敗戦後の生活にしぼられている。そこで中沢氏自身の戦争観やまたそれをもとにした残虐シーンが描かれている(ただし量的にはそんなに多くはない)。戦争観はさておき、この残虐シーン(日本軍の行為など)が、残虐であるがゆえに規制の対象になったというわけだ。
 世論はほぼ二分されたような印象がある。規制賛成は、主に歴史的な出典が不明な日本軍による残虐シーンや説教くさい作者の天皇制批判が問題であることを規制の理由にしている。規制反対派は、表現の自由を理由にしているケースが大半であり、大新聞などの論調も多くはこれだった。
 ここで私的な感想を書くのもなんだが、『はだしのゲン』は中学校の頃に、ある個人が運営していた図書室で読んだことがある。第一部が掲載された『少年ジャンプ』も読んではいたが、まとめて通しで読んだのはちょっとしてからだ。その感想は、第一部の戦時下の生活や原爆投下時の被災の描写は、まさに鮮烈な印象だったが、その後の僕の人生に、別なマンガに比べてぬきんでた影響を僕には与えていない。特に第二部がやはり退屈なのだ。『はだしのゲン』というマンガは、両義性を活かした読み物だ。(視覚的な刺激に基づく)娯楽的要素と作者の戦争体験から得たシビアな教訓という、まるで違う方向性を統合したところにこの物語の面白さがある。ただ第二部は、経済学者の高橋洋一が指摘したように、「説教臭」すぎてこの両義性の統合がうまくいっていない。簡単にいうと退屈なのである。おそらく多くの読者は後半の途中で読書を放棄する可能性が大きい。中学のころの僕もその例だった。完読したのはさらに数年後だった。
 個人的な感想はここまでにして、マンガと規制の問題はどう考えるべきだろうか? 
例えばたばこの吸いすぎであるとか、ポルノの見すぎであるとか、ゲームのやりすぎであるとか、はたからみて「やりすぎ」「中毒」という評価が下されるときがある。しかし、本人たちは「中毒」から受ける快楽と、その健康への悪影響などのマイナス面を計算して、前者が後者を上回るときに、「中毒」行為を行っているとしよう。これを「合理的中毒者」という。「合理的中毒者」が、「合理的非中毒者」を見分けるにはどうしたらいいか? その中毒行為が過去の中毒の水準や、将来可能な中毒の程度に影響されているかどうかで判断可能だ。例えば、たばこの料金が値上がれば、将来の中毒の水準に経済的な制約が加わる。合理的な中毒者は将来のたばこの消費から得る快楽と、その快楽を得るために将来支払う追加的な料金を比較して、たばこをどれだけ吸うかを判断する。もし仮に値上がりが激しくて、現在のお小遣いではいまと同じほどのたばこを吸うことができないと判断したら、現在のたばこを吸う量をコントロールするだろう。これが合理的中毒者の行動だ。
 合理的中毒者の考え方は強力だ。例えば18歳以下の青少年が、残虐なシーンが描かれたマンガやアニメやテレビゲーム「だけ」を好んでみる「中毒」状況だとしよう。彼がもし合理的中毒者であれば、実はそれほど大きな問題はない。例えば、彼は暴力シーンをたくさんみただけで、暴力的な人間や現実世界で暴力を行ったり肯定する人間になるだろうか? それはかなり疑わしい。まずここで「中毒」に陥っているものは、暴力的なマンガに対してであり、暴力そのものの消費(生産)ではないということだ。また極端な仮定だが、暴力的なマンガが、現実に暴力をせよ、と命じる内容のものだとしよう。しかし合理的な判断ができるという前提からいえば、彼は実際の暴力を行うか否かも費用と便益を比較して決定するだろう。そしてそのような可能性は、現実にきわめて低い。
また中毒的にそれらのものを消費していても、基本的に経済的な要因を変化させれば、自己コントロールが効くので、あまり過剰な他者の介入を行うべきではなくなる。 たとえば、暴力的なマンガは、教育者や親の承認がないと閲覧することができない、というのは過剰(ムダ)な規制だ。教育者や親が、子供の好みや合理的な判断を発揮する可能性を摘んでしまう事、また同時に教育者や親が子供のよきエージェントとしてふるまう可能性がどこまであるのか疑問だ、ということだ。むしろ暴力マンガの消費を抑制したいならば、そのようなマンガを図書館で借りるときには有料化にするのも一案だろう。もちろんこの有料化による消費の制限には根拠が必要だ。さきほどから書いてきたように、暴力的マンガの消費者が合理的中毒者であるならばさして(閲覧制限でも有料化でも)介入根拠はない。
介入根拠としてもっともらしいのは、1)暴力マンガを読むこと自体が社会的な外部不経済を発生させる場合、2)政府や地方自治体がその独自の社会的価値判断を、帰属する面々に「価値財」としておしつけるという一種のパターナリズム(父権主義)からの要請 という二点がその代表だ。前者を考えるときに注意すべきは、先に書いたように、「暴力マンガを読むこと」と「暴力をすること」をまずわけておくべきことだ。前者が後者を誘発する実証的な根拠はかなり乏しい。その上で「暴力マンガを読むこと」自体が巻き起こす外部不経済とはなんなのかを考えよう。一番の典型的なケースは、電車などで隣の人が陰惨な暴力マンガを読んでいて、それをついちら見した人が深刻なトラウマに陥るケースだ。これも多少極端なケースではもちろんある。ただ仮説例としては使えるだろう。二番目のパターナリズムとは、政府や地方自治体が独自の価値判断をその所属者に強制する場合だ。この二番目の問題は、その「独自の価値判断」がいかようにその共同体や国家の中で形成されているのか否かが多きな問題になるが、今回は誌面の都合で論じない。このふたつの理由が、典型的な「暴力マンガを読むこと」自体を規制する根拠となりうる。そして規制する手段としては、閲覧を第三者(親や教育者など)に委託するよりも、料金徴収にしたほうが望ましいとした。『はだしのゲン』に規制根拠があるのかないのか、それは2)のパターナリズムを抜かせば、合理的な根拠に乏しいと僕は思う。

Barefoot Gen vol.1: A Cartoon Story of Hiroshima (Barefoot Gen)

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