高橋亀吉の実践経済学

 再掲載。実践マクロ経済学(Practical MacroeconomicsもしくはPragmatic economics)関連でしばらくいくつかネタを掲載予定


高橋亀吉の経済思想―その現代的意義―

1 「高橋亀吉の時代」の中で



 不況や経済的な構造変化が訪れるたびに、時代は経済学者やエコノミストたちに助言を求めてきた。現代の日本は90年代初頭以来の長期的な「大停滞」に直面しており、日々激しい経済論議がさまざまなメディアの中で戦わされている。エドモンド・バークがいったように現代は「経済学者の時代」でもある。しかも日本は戦後の先進国経済の中で例外的にデフレに陥っている。この日本のデフレ体験は、いわゆる「昭和恐慌」の時代として知られる1920年代から30年代はじめにかけての「失われた13年」以来のものとなる。本稿の中でとりあげる高橋亀吉の経済思想はまさにこのデフレ不況の産物として現われ、鍛え抜かれた実践的な経済思想であった。

 高橋亀吉1920年代から30年代はじめにかけて主張したのは、いわゆる「新平価解禁論」ないし「金輸出再禁止論」であったが、その内実はデフレ脱却のためのリフレーション政策の提言にあった。高橋は、石橋湛山小汀利得、山崎靖純らの「新平価解禁四人組」としてこのリフレ政策を積極的に唱導した。やがて、高橋是清蔵相による金本位制からの再離脱と日本銀行による国債の直接引き受けという「二段階の政策レジームの転換」によって、その主張の核心部分は現実の政策として結実した(ただし必ずしも高橋自身はこの「高橋財政」の政策転換を全面的に支持していたわけではないことは後述する)。

 現代日本は90年代央からの長期的なデフレ不況にあり、日本におけるリフレ政策の先駆者としての高橋亀吉の経済思想は、80年あまりの時空を超えて、われわれの目前にふたたび「高橋亀吉の時代」が到来したことを実感させるだけの豊かなものをはらんでいると私は考えている。

 高橋亀吉は『東洋経済新報』で経済記者としてデビューし、その後民間エコノミストの草分けとして経済論壇につねに主役としてあり続け、戦後70年代まで精力的な活動を続けた。その業績と活動は広汎で、著作は120余冊、論説は1000本を優に超えるものであり、この小論でそのすべてを考察するのは不可能である。ここでは高橋の経済思想がもつ意義をデフレ不況からの脱却というきわめて現代的な文脈から考えてみたい。

 高橋亀吉はデフレ脱却としてリフレ政策を主張したとしたが、このリフレ政策は彼の生涯を支えるふたつの経済思想的側面から派生した政策提言であった。そのふたつの思想的側面というのは、一) 実践的Practicalな経済学への志向、二)現状を通時的(歴史的)に分析する志向 である。

 以下ではこのふたつの思想的視座から高橋のリフレーション理論の意義を考察していくことにする。



2 高橋亀吉の実践経済学



 高橋のデビュー作である『経済学の実際知識』(1924(大正13)年)は、その表題に示されているように現実の経済を「実際」的に探求することを目的としたものであり、いわば純理論的な見地を日本経済の実状の中で読み解くことを意図したものである。高橋は「実際」と同じ意図で、「実用経済学」とか「実践経済学」という言葉を好んで用いたが、それは概ね次のような主旨にもとづく。

 「各種の経済問題に対して、簡便に、その本質を理解し得る、一般的な総合的知識を持ちたい要求が、社会の各層に、いまや澎湃として起こりつつある。蓋し、現在の有ゆる問題は、基本的な経済知識なくして、之を正解することは益々至難となりつつあるからである。(略)然るに、従来に於ける『経済学』書は、右の如き欲求に応ずべく、余りに、縁遠き専門の原則論の討究で覆はれている。しかも重箱の隅を箸でツツキ回す類のそれが多い。経済学を専攻せんとする『学者』にとっては、なる程、一応は、これでよいか知れぬ。が、日々起伏する経済現象を理解し、批判する実用的(プラクチカル)な一般的知識を、簡潔に署ルまんとする者には、一寸歯が立たぬ。それ恰も、各人の体に起こる諸現象が、如何なることを意味し、之に対して如何なる手当てをなすべきかの、当面のプラクチカルな医学知識を要求せるものに、根本的な細胞論に対する各種の研究を講義せんとするの迂愚に等しい」(『実用経済学』2頁)。

 このように一般の読者が専門的にではなく、「現に吾々が日常目睹し体験しつつある活きた経済現象を解釈する手引」(『経済学の実際知識』3頁)としての経済学を意味すると同時に、また専門的な経済分析家が経済学的知見を現実に適応する際の指針という意味も含まれていた。高橋は純粋理論の適用で物事を分析する者を「病理学者」と表現し、それに対して現実の処方箋を書くものを「臨床医者」と表現して、後者の意義を強調した。

 「戦後は近代経済学が発達して、学者が実際の経済にタッチしてきた。そのかぎりにおいてたいへん喜ぶべき現象だが、まだ過渡期で、少なくとも最近までのもう一つの大きな弊害は、純理がわかっていれば実際の対策に対し処方箋を書きうると錯覚していることである(略)ところが日本の経済学者は、臨床の訓練もやらないし努力もしないのに―つまり、日本経済が実際にどういう状態にあるのか、あるいは病態にあるのかという臨床的研究ぬきで―、理論で議論して処方箋を書き、「こういう政策をとるべきだ」という。私にいわせれば、病理学の理論(既存の)だけなら、覚えろといわれれば、二〜三年でおよそは覚えられる。しかし、臨床は少なくとも一〇年の経験が必要であり、それがなければ本当の医者にはなれない。それほど臨床はむずかしいのである」(『私の実践経済学』205頁)。

 このように日本経済の現状に適合する形で処方箋を書くことが高橋の経済観の大要である。これだけみると何か経済学的な常識を軽んじて、あたかも第三者からはわかりがたい直観や経験則で高橋が経済を分析していたかのようにもとられかねない。

 しかし、ここで念を押して強調すべきなのは、高橋の「実践経済学」はそのような経済学的常識をないがしろにしたものではまったくなく、いわゆる専門知をないがしろにした「世間知」といったものでもない。むしろ高橋の「実践経済学」の核心はきわめてあたりまえな経済学の常識に属するものである。

高橋の「実践経済学」の核心とは、経済問題の根本的要因が「構造的要因」(高橋の用語では「変化」や「経済成長の構造的変化」)であるか「循環的要因」(高橋の用語では「変態」や「景気の循環的変動」)であるかを判断することに尽きる。そしてこれら二つの要因に応じて提言する政策は正当に割り当てられるべきであるというのが高橋の政策処方箋の要点である。

「経済はつねに変動している。その場合つねに注意しなければならぬことは、その変動を一時の「変態」とみるか、構造的「変化」とみるか、ということである。変態であるなら一時の異常現象に過ぎないから、できるだけこれを常態に戻さなければならない。事実、常態に戻っていくのである。この場合には経済理論や尺度には何らの変化も起こらない」(略)もし、変化であるなら、これを抑えてもいけないし、戻してもいけないのだ。変化した方向に展開さすべきであり、その立場で診断し処方箋を書かねばならない。その場合には当然、理論にも変化が起こる。従来の理論では通用しなくなるのだ」(『私の実践経済学』25頁)。

「つまり、景気を見るとき、もっとも重要なことは、その景気変動が、単なる景気循環的なものなのか、それとも経済の成長そのものが構造的に上昇傾向に転じたか、または、下降期に転じたかそうか、ということを峻別し、景気の動向を吟味せねばならない。この景気の循環的変動の影響と、経済成長の構造的変化の及ぼす影響とを区別して見ることの重要性」(『私の実践経済学』90頁)が強調された。

 このような高橋の「変化」と「変態」を区別する見方は今日の日本経済を診断するときにもきわめて重要である。なぜなら小泉政権が発足した際の政治的スローガンは「構造改革なくして景気回復なし」というものであったし、また今日でも「成長なくして改革なし」(このときの成長は期待成長である)という「変化」(構造的要因)と「変態」(循環的要因)を混同した発言が流布しているからである。ここで簡単に構造的要因と循環的要因とそれぞれの政策的割当てについてまとめておく。

そもそも構造改革には、特殊法人公益法人改革、都市再生計画、公的金融機関の統廃合、財政支出の中味の見直しなどが含まれている。これらは、政府の不適切な規制や政策の歪み、制度の欠陥など(構造的要因)を正すことで、資源の効率的な利用をするインセンティヴを生み出すものである。既存の生産資源を効率的に利用できるので、経済の潜在GDPや潜在成長率の上昇に貢献することになる。

それに対して、景気変動は、総需要の自律的な変動によって、インフレ・ギャップ(総需要が総供給を上回る)とデフレ・ギャップ(総供給が総需要を上回る)が交互に繰り返される循環的現象である。いわば景気変動とは総需要の自立的変動という循環的要因によって生じているのである。「デフレ不況」とは、総需要の減少によりこのデフレ・ギャップが拡大することで、失業や物価下落が生じている現象である。そして経済全体の需要不足によって、「現実のGDP」が「潜在GDP」にまで到達しないときに必要になるのが、マクロ経済政策である。その目的は、総需要の調整を通じた適切なインフレ率および失業率の達成及び維持である。現実の経済成長率は、この「現実のGDP」が維持されたときに求められるものである。

ここまででわかるように、構造的要因の解決には構造改革、循環的要因の解決にはマクロ経済政策、というのが正しい経済政策の割当てである。しかし現代でもこの二つの要因の混同は政策の場でも経済論壇でもはなはだしいものがある。高橋が問題視していたのはこの種の悪しき混乱であった。

 ところで高橋は70年以上前の昭和デフレ期においてこの「構造的要因」と「循環的要因」をいかに診断していたのだろうか。簡単にいえば、金本位制度の変質という「構造的要因」とそれがもたらす需要不足による失業という「循環的要因」とを、昭和デフレの問題として把握していたことになる(実は高橋の考えた「構造的要因」には日本の企業の統治機構の変化という重要な論点もあるがそれは最後に触れる)。前者については金本位制度からの再離脱が適切な対応であり、後者は総需要刺激政策としての財政・金融政策が高橋の処方箋となった。いわば、高橋亀吉のデフレ脱出論は、彼の「実践経済学」の核心たる「変化」と「変態」観の産物なのである。



3 政策レジーム転換論



昭和恐慌の原因が金本位制への回帰をめざす引き締め基調の経済政策のあり方であることには、昭和恐慌期の研究者の多くの合意がある。実際に日本が1930年1月に金輸出解禁をして金本位制への復帰を果たす以前からも、事実上の変動相場制であったにもかかわらず、通貨当局の政策は金本位制復帰を準備するために物価の引き下げと円高を志向するデフレ政策を基調とするものであった。そのようなデフレ政策の頂点が、1931年からの昭和恐慌であり、10%を超える猛烈なデフレをもたらし、農村部を中心に人々の生活は極度に悪化した。

 1930年以前においてもデフレが恒常的な状態であったが、30年からは猛烈な二桁のデフレに転じた。この猛烈なデフレは「金本位制の足かせ」から説明しなくてはいけない。

 金本位制とは、竹森(2002)、堀(2002)らの簡潔なまとめを利用すると、1)中央銀行は紙幣・通貨といった現金と中央銀行保有する当座預金勘定を合計したマネタリーベースと同額の金準備を保有し、いつでも金の一定量と通貨・紙幣との兌換を認める。経済学の通常の理解であれば、マネタリーベースは一国のマネーサプライを決定するので、金準備によってマネーサプライは制約されることになる。2)貿易赤字国から金が流出すると、1)からマネーサプライが減少し、物価が低落、国内経済は冷え込む。所得と物価の減少は輸入を減少させ輸出を改善することで貿易赤字は改善する。貿易黒字はこの逆のメカニズムが働く。これはヒュームの正価流出入メカニズムとよばれている。

 この金本位制のメカニズムが健全に機能すれば為替レートの安定と国際収支の調整がスムーズにいくと期待され、第一次大戦前はこのメカニズムが機能していたと信じられていた。しかし、第一次大戦後に金本位制に復帰した国々はほとんどが「金本位制の足かせ」といわれるデフレ不況に直面した。その「金本位制の足かせ」とは次のようなものである。

 二国間のケースで考えよう。金現送費をゼロと仮定すると、先の1)から両国の為替レートは各国のベースマネーの比率で決まる。2)の正価流出入メカニズムが機能すれば両国の金平価が決まれば、各国のベースマネーの比率は固定化される。しかし、もし2)のメカニズムが不全であったらどうなるであろうか?

 例えば金流入国は金準備が増加することでベースマネーが増える。しかし金流入と同時に金融引き締めによりマネーサプライの縮小を行ったらどうなるであろうか。このような金流入国が引き締め策をとれば、金流入は継続してしまい金流出国の金準備は急速に減少してしまう。これを避けるためには、金流出国はマネーサプライの減少をはかるために金融引き締めを選択せざるをえない。つまり金流出入両国で金融引き締めが行われ、両国経済全体が収縮してしまうのである。この金本位制の特色に基づく国際的な経済縮小は、実際に戦間期に起こったことであり、これを「金本位制の足かせ」とよんだ。日本の昭和恐慌もこの「金本位制の足かせ」の産物である(堀(2002)、Eichengreen and Temin(2000)、Bernanke(2000)など)。

 確かに当時、震災手形問題などの典型的な不良債権問題や企業の統治機構の問題などの「構造問題」が現出してはいた。しかし昭和恐慌は、(1)「金本位制の足かせ」による(2)金融引き締め政策の結果として必然的に招来した国際・国内金融要因にもとづくものである。そして昭和恐慌からの回復も、この(1)と(2)の解消によって基本的に成し遂げられた。

 岩田・岡田・安達(2002)は「政策レジーム転換」でこの(1)と(2)を二段階にわけて離脱することで昭和恐慌から離脱したと主張している。ここでいう「レジーム」とは、Temin(1989)によるもので、「多くの行動を規定する政策についての基本原理」をしめす言葉である。

岩田らの指摘では、「高橋財政」下において、1931年12月13日の金輸出再禁止命令と、1932年11月25日の日銀による国債引受けという超金融緩和政策の二段階のレジーム転換でそれぞれ(1)と(2)のレジームを転換して、デフレ期待からインフレ期待を醸成することに成功し、デフレを脱却することに成功した。

高橋亀吉自身もこの二段階のレジーム転換の必要性を当時明白に意識しその実現を主張していた。そのことは金本位制からの再離脱によっても高橋の意図は満足されず、通貨の安定(その裏面の財政金融政策への消極的態度)に固執する高橋是清蔵相への以下の批判からもわかる。

「しかるに、その後時間の経つに従って、高橋是清蔵相の政策は、金輸出再禁止は断行したが、円為替相場は、極力これを維持する建前の下で財政金融の緊縮政策を依然続ける性格のものであった。これは、われわれ新平価論者の金再禁止目的とは丸で違うものである。というのは、われわれの主張していた金再禁止は、これによって、円為替相場を適当な位置まで計画的に引き下げる目途をもって、財政金融政策に思い切ったリフレーション政策を断行するにあったからだった」(『高橋経済理論形成の60年』160-1頁)。

高橋によれば、結局この高橋是清のリフレ反対政策の放棄は、不況の深刻という「環境悪化そのものの圧力で、余儀なく、結果的に達成せられることになった次第」であり、「政府がイヤイヤやったリフレーション政策」となった。高橋はこのような受動的な政策転換のあり方が「政府の計画的政策」への不信感をかえって公衆に植え付けたと後に回顧している。

ところでこの財政金融政策によるリフレ政策はどのような背景から要請されたのであろうか。まず政府の積極的な政策介入への要請は、市場が自律的な調整機能をもっていないと高橋が考えていたことによる。

「ところが(略)井上蔵相は如何なる対策を示されたかと云うに、多くの学者からすでに死刑の宣告を受けているところの、景気循環論(仮に作用するとしても何ヶ年かの後だ)の幽霊を持ち出されて、間もなく景気が直るから待てと云はれるだけだ。また他の反駁論は云う、此の位の苦しみに負けて何とするのだ、いま暫くの辛抱だ我慢しろと云ふ。だがそう云う人々は誰かと顧みると、民政党関係者に非ざれば、此の殺人的不景気にも拘らず、収入は却って実質的に増大したところの銀行重役や官吏や、新聞雑誌記者や、大学の先生等々だ」(『金輸出再禁止論』49-50頁)。

市場には「循環的要因」を自律的に解消することはできない「市場の失敗」が存在し、そのために遊休設備や失業を解消するために積極的な財政金融政策が必要とされるのであった。

 このように市場が自律的調整機能に欠けるという見解は、高橋の初期代表作である『経済学の実際知識』や『金融の基礎知識』(1914(大正15)年)において「政府の科学的統制」という表現で採用されている。高橋によれば前者は、G.カッセルの『世界の貨幣問題』とN.ブハーリンの『過渡的経済論』に大きく影響をうけたものであった。カッセルの本には金本位制離脱による経済安定化の処方箋が提起されており、ブハーリンには市場経済の限界とともに社会主義的な要素をもった過渡的な経済体制の重要性が書かれていた。高橋が政府の積極的介入を支持したのは、総需要をコントロールするというケインジアン的な発想というよりも(ブハーリンを含めた)社会主義的な観点に影響されたものだと思われる。

 

4 高橋亀吉の「構造改革」的視点



 高橋の膨大な時論の根幹に彼の日本資本主義発展史観があることはよく知られている。いまでも読まれている『日本近代経済形成史』(徳川中期から1885年までを研究対象、1968(昭和43)年)、『日本近代経済発達史』(1885年から第1次世界大戦前までが研究対象、1973(昭和48)年)、『大正昭和財界変動史』(日露戦争後から準戦時経済体制期までが研究対象、1955(昭和30)年)の三部作が代表的著述であろう。高橋の日本経済発展史観の独特な点は明治維新封建制度の完全な撤廃として特徴づけたことにある。そしてこのような急速な資本主義経済化が昭和恐慌の時代にまでその深刻な病弊をあらわにしたというのが、高橋の史観と時論のクロスする点でもあった。

 高橋は前記したように「構造的要因」を政府の為替レート安定への極端な固執金本位制への復帰という政策ミスとして考えていた。このような構造的要因を正し(金本位制からの再離脱)、そのうえで自律性を回復した財政金融政策によって「循環的要因」たる総需要の不足を補うべきだと考えた。しかし、一方で高橋は彼の史観に由来する次のような「構造的要因」をきわめて重視していた。

 「日本経済今日の行詰は、その根幹的経営主体たる株式会社制度の欠陥に基く所が鮮少でなく、その改善は刻下の急務の一つである。顧るに、日本に於ける会社企業は、明治維新直後、急に、大資本を要する世界資本主義経済に接触し、之に対応するため、速成的に人為的に粗製濫造せられたものであって、健全なる会社経営に必要な準備的経済条件の成熟して、その上に発達したものでは決してなかった」(『株式会社亡国論』3頁)。

 大株主は業績悪化にもかかわらず「蛸配当」を受け巨利をむさぼり、他方で経営者は会社資産を減少させ、徒らに高額の重役賞与をうけとっていると高橋は強い批判を展開した。また1920(大正9)年以降の戦後不況にもかかわらずこのような非効率的な企業が政府のさまざまな「弥縫政策」(特定企業への資金貸出など)によって生き残り、いわゆる「財界整理」が未完成に終ったことを高橋は問題視していた。しかしこのような「財界整理」や株式会社の統治機構の改善は、需要不足のない場合では潜在成長率を高めるかもしれないが、デフレ不況のような需要不足の事態では現実の成長率を引き下げる方向に働きかねない。なぜなら「財界整理」によって産業や企業が合理化にはげめばはげむほど、その結果多くの失業者が輩出し、それが総需要の一層の低下を招くからである。これは失業や遊休設備の存在を資源の非効率な使用の状況と考えるならば、デフレ下での「財界整理」のような構造改革は、より一層の資源の非効率的な配分の実現に帰結しかねずまま失敗に終るに違いない。

 実は高橋もまたデフレのもとでの「財界整理」が事実上破綻していることを『金解禁再禁止論』などで唱えていた。その上で彼は「実に、新平価解禁そのものこそは、今日旧平価解禁の下では到底なし得ざる財界整理を最も効果的に最も徹底的に断行するものに外ならぬのだ」(『金解禁再禁止論』14−5頁)と新平価解禁(これは事実上の金解禁再禁止と同じである)によるリフレ政策が、「構造的要因」たる「財界整理」をも順調にすすめると力説しているのである。

 高橋が1930年代初頭において問題視していた「財界整理」とは主に次の三点であった。

 「(1)是迄に於ける損失の整理、(2)国際的競争に対抗し得られる点迄の物価の下落、而して其の物価でも産業が引合う点にまでの生産費の低下、(3)不経済工場乃至設備、並に過剰同士の淘汰、弱小事業の呑併合併に由る統制化」である。

 (1)についてはリフレによって企業のバランスシートが改善すること(実質負債の減少と保有資産価値の増加など)によってもたらされると考えられていた。(2)はやや誤解を招く表現である。このときの「物価」は一般物価水準ではなく、産業ごとの相対価格水準を意味していた。高橋はリフレによって実質賃金に代表される生産費が低下することで国際競争力の確保につながると期待した。(3)については後の準戦時体制下における高橋の統制経済論とともに読解しなくてはいけないが、少なくとも昭和恐慌期においてはカルテルやトラストによる統制化や独占には反対であった。リフレによって弱小企業も「存立の見込み」を与えられる可能性もで、むしろ「大資本家的統制」を抑制するのが政府の責任であると高橋は強調している。リフレが構造改革を妨げるのではなく、むしろ促進するという観点は現代日本において重要な警鐘ではないだろうか。



参考文献

Bernanke,Ben.(2000) Essays on the Great depression , Princeton UP.

Eichengreen, Barry and Peter Temin (2000) “The Gold Standard and the Great Depression,” Contemporary European History, Vol.9, Issue 2, July, pp. 183-207.

Temin, Peter (1989) Lessons from the Great Depression, Cambridge, MA: MIT Press.(『大恐慌の教訓』東洋経済新報社、1994年)。

岩田規久男岡田靖安達誠司(2002)「大恐慌と昭和恐慌に見るレジーム転換と現代日本の金融政策」原田泰・岩田規久男編(2002)所収。

田中秀臣(2003)「構造改革論の政治経済学」早稲田大学政治経済研究所編『現代マクロ経済学のフロンティア』。

竹森俊平(2002)『経済論戦は甦る』東洋経済新報社

野口旭・田中秀臣(2001)『構造改革論の誤解』東洋経済新報社

原田泰・岩田規久男編(2002)『デフレ不況の実証分析―日本経済の停滞と再生』東洋経済新報社

堀雅博(2002)「世界大恐慌と金融政策」原田泰・岩田規久男編(2002)所収。


私の実践経済学

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