人間関係の希薄化と高齢(超高齢?)老人の行方不明問題

 Twitterで教えてもらったので、『SPA!』の福田和也坪内祐三対談を読む。大阪寿司をつまみながらの対談。話題は高齢老人の行方不明問題に。

 そこで福田氏が宮本常一の『忘れられた日本人』を持ち出して、家族がぼろぼろになり、地域の人間関係が薄れたのは何も最近ではないと指摘。それをうけて坪内氏は以下のようにいう。

「坪内 常一は、都市より、地方の話を書いてるじゃない? 今回の「消えた老人」は都市の話だよね。で、「都市には昔もっとコミュニティがあった」みたいなことを言う人がいるけでど、それだってけっこう鬱陶しいコミュニティだったわけだよ。その鬱陶しさより、自由がいいということで、今のようなスタイルをみんなが自発的に選んできたわけじゃん」

 この坪内氏の意見には個人的に賛成する。僕も『不謹慎な経済学』で次のように書いたことがある。

 人間関係の濃密化から逃れて自由な個人でありたいという選択の一方で、従来の組織やコミュニティが提供してきた社会資本のいくばくかを享受したい、と考えるのは自然の欲求だろう。例えば私が人通りのない通りで暴漢に襲われたり、または不意に心臓発作で倒れてしまう。家族も知り合いにも助けを求めることがすぐにはできない。しかし路上のすべてがモニターに映し出されていて、それをみている監視者がすぐに警察や救急車を手配してくれるとしたらどうだろうか。
 もちろん日常生活の大半がモニターで監視されることには心理的な抵抗が大きいだろう。だが実際に、私たちの社会は個人の自由を享受すればするほどに、この種の個人監視の手段に依存しているのもまた事実である。例えば小学生が持っている携帯に位置を衛星で探知するサービスをつけたり、ETCで高速を利用したり、さらにネットで書籍を買うことなども、知らず知らずのうちに自分の個人情報やプライバシーを他者に差し出している(その交換として自由を享受している)といえるのではないだろうか。従来からの議論では、このような国家や特定組織からの個人情報の監視とその利用は、権力の専横として恐怖され、また批判もされてきた。いまだに根強い国民総番号制への反対や歓楽街などへの監視カメラへの嫌悪感はその反映だし、また反対に個人情報を過度に保護する論調もこの種の批判の裏返しであろう。これらの監視社会への批判や嫌悪感は直感的にわかりやすい。また「権力者」が個人情報やプライバシーを不正に利用する可能性もまったくないわけではない。年金を払いにいった人の納付金をそのまま懐にいれてしまう、というのも「権力者」の個人情報を利用した詐欺だといえなくもない。しかし監視するものに単純にビックブラザーの恐怖を読み取る議論よりもここでは異なる方向から議論したい。
 監視社会論の権威であるディビッド・ライアンは、ロンドンの地下鉄で不信な人物が監視カメラに映れば直ちに排除されることを紹介している。また日本でも通学路で不信な人物がいれば「不審者情報」として児童の保護者たちに携帯電話などで情報が行き届くという事例もある。これはわずかなリスクの可能性を事前に排除してしまう技術だといえる。実際にカメラや目撃者がみた不審者が顕在的なリスクなのかどうかはさておき、先のロンドン地下鉄のケースでは不審者の排除が行われるという。これは子どもにポルノや過剰な暴力サイトなどを見せないように予めプログラム化されたパソコンを使わせることに似ている。両方のケースともにリスクの可能性をそれが目に見える前から排除してしまうのである。
 気鋭の法哲学大屋雄裕は『自由とは何かー監視社会と「個人」の消滅』(2007年、ちくま新書)の中で、このような事前の規制(事前の矯正?)こそ、ビックブラザーの恐怖よりも現代社会で個人の権利と相克する深刻な問題である、と述べている。
 大屋はアメリカの憲法学者ローレンス・レッシグの著作『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』(翔泳社)での議論を借りて、現代のわれわれの行動を規制する四つの仕組みに注意を促している。その四つとは、法、市場、社会規範、そしてアーキテクチャである。監視社会による事前規制が個人の権利と相克するのは、特にこのアーキテクチャを通してである、と大屋は指摘する。
 ここでいうアーキテクチャとは、レッシグによれば「社会生活の「物理的につくられた環境」」を意味する。具体的な例としては、先にあげたポルノや過剰な暴力サイトをみせないように工夫されたプログラム、またがホームレスの人たちが集住できないように敷設された地下通路のオブジェなどをあげることができる。監視カメラでの危険人物の事前排除もそうだ。
また中国版グーグルの検索結果と日本や米国での検索結果が違うことはよく知られていて、これは個人の知る権利とアーキテクチャの事前規制の相克を表すケースといえるだろう。もちろんこの相克関係だけに注目することは監視社会の妥当な見方とはいえない。
コミュニティや家族が提供していた安全性や社会資本の利便性を、監視社会というアーキテクチャが代替することで個人の自由を促進する(また事前規制が個人の権利と衝突する)ことがある、という論点は実は新しくて古い問題ともいえる。私たちはこの種の「自由のパラドックス」にどう対処すべきだろうか。

 この「自由のパラドクス」の問題を考えていくと、僕は大正時代の経済哲学を思い出すのだが、それはまたいずれ

不謹慎な経済学 (講談社BIZ)

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