小野耕世の本を読んで2,3思ったこと

 以下は以前BD研究会で話したレジュメの再録。

1 なんで小野耕世の業績が気になったのか

 最近、『ゼロ年代の想像力』(2008)を書いた宇野常寛と長時間の対談をする機会を得た(シノドスメールマガジン近刊)。その過程で小野耕世のマンガ、アニメに関する批評が日本の論壇においてもつ意義を再考する動機が生まれた。

 まず宇野の『ゼロ年代の想像力』というのはどのような議論であったろうか。簡単にいうと、それは95年ごろを境にして出現しているマンガやアニメやテレビドラマなどにみられる内容を「古い想像力」とし、その特徴は「引きこもり/心理主義的傾向」と「〜しない倫理」によって表現され、代表的な作品としては『新世紀エヴァンゲリオン』があげられている。「セカイ系」である。

「ここにおいては社会的自己実現への信頼低下=「がんばっても、意味がない」という世界観の浸透が、さらに発展して社会的自己実現の嫌悪=「がんばると、必ず過ちを犯し誰かを傷つける」という世界観に補強されているのだ」(宇野『ゼロ年代の想像力』(2008)早川書房、17頁)。

宇野はさらにこの「古い想像力」=セカイ系に対し、ゼロ年代においては『DEATH NOTE』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』などのマンガ・アニメ作品において「新しい想像力」が展開されていると指摘した。そしてそのような「新しい想像力」を指摘することに論壇は失敗している、というのが宇野の現状批判としてある。ではその「新しい想像力」とは何か。それはそもそもゼロ年代同時多発テロ小泉改革を契機にした社会の変化を反映していると宇野は指摘している。

「だが2001年前後、この「引きこもり/心理主義」的モードは徐徐に解除されていくことになる。簡易に表現すれば、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ小泉純一郎による一連のネオリベラリズム的な「構造改革」路線、それに伴う「格差社会」意識の浸透などによって、90年代後半のように「引きこもって」いると殺されてしまう(生き残れない)という、ある種の「サヴァイヴ」感とも言うべき感覚が社会に広く共有されはじめたのだ」(同上、18頁)。

つまりこうだ。90年代における「大きな物語」の失効→「小さな物語」としての「想像力」の問題→「古い想像力」=引きこもり主義→「新しい想像力」=サヴァイヴ感あるいは決断主義

という図式になる。

ところで宇野はこのようなゼロ年代の想像力である決断主義に代替する動きも見ている。マンガに限定してみれば、それはよしながふみの一連の作品などに典型的だという。それは僕が表現すれば、「キャラがたってて、それを相互に前提にしている人たちのコミュニケーション」を描いていることにある。

 宇野の言葉を借りれば、よしながふみの『西洋骨董洋菓子店』や『フラワーオブライフ』などにみられる「群像型の成熟モデル」である。宇野によれば社会が決断主義的物語を強制している以上、そこから逸脱することは難しい。人が想像力の範囲でできることは、「物語」の中から「暴力」を極力排除するような環境を設定することである、という。

 このような宇野の論について、報告者はブログで資料1のようなことを書いた。それを引用して栗原裕一郎は『大航海』の最終号で宇野批判を展開した。さらに笠井潔らは『社会は存在しない』(2009)を一冊、宇野批判に使い、そこでセカイ系は終わっていず、セカイ系の一種として決断主義が存在し、秋葉原事件のようなセカイ系決断主義によるテロリズムゼロ年代以降も頻発するだろうと予見している。

 これらの議論をうけて、宇野と対談したわけである。報告者の主張はブログに書いていた認識を初めとして、特に現実を社会的想像力(マンガ、アニメなど)が適確に表現できていないか、あるいは間違って解釈しているのならば、それは一種の欺瞞の体系である、というものであった。欺瞞というよりも誤解かもしれないが、その想像力が現実の反映になっていないという誤解を指摘しないのであれば、宇野自身の営為が自己欺瞞的ではないか、といいかえてもいいだろう。

 この議論の過程で想起したのが、小野耕世の著作や論説群である。正確にいえば小田切博の『戦争はいかに「マンガ」を変えるのか』(2007,NTT出版)もそうである。なぜ想起したのか。

1 日本だけではなく諸外国のマンガなどの比較(空間的多様性)
2 戦争、テロリズムの影を過去―現在で検証(時間的多様性)

の二点において宇野の議論を批判的にみる視座あるいは素材を提供してくれるように思えたからである。

2 小野耕世とBD

 BD研究会なので主にBDに関連した小野の発言で、小野の足取りを追ってみる。

 ジョン・フォードの『海ゆかば』の感想から。全編カラーの戦争ドキュメンタリー。日本側の戦争記録はモノクロばかり。

 「おそらく日本が戦争に負けたのは、このモノクロームとカラー・フィルムとの差でもあっただろう」(小野『ぼくの映画オモチャ箱』1976年、晶文社 263頁)。

 「思えば、カラフルなものは、すべてアメリカの香りをもっていた」(同上、264頁)。

 カラー →初めて接したアメコミ(『スーパーマン』など)のイメージに。小野のアメリカンコミックス体験には戦争(敗戦後)の影

 BD作品には1960年に、「タンタンの冒険シリーズ」の『レッド・ラッカムの秘宝』を読む。後に小野はタンタンシリーズにアメリカの影響を確認する(『タンタン、ソヴィエトに行く』(1929)におけるジョージ・マクマネスの『おやじ教育』の影響)。

 ジャン=クロード・フォレストの『バーバレラ』の英語版を読む。
 「非常に簡単にいってしまうと、ロボットとベットを共にする美女という設定が、当時はすばらしく新鮮だったのである」(小野「フランスBD界との出会い」『フランス・コミックアート展2003』所収、73頁)。

 月刊誌『COM』1968年4月号から海外マンガ評を書き始める(手塚治虫の紹介)。69年に「タンタンの冒険シリーズ」についても書く。
 
 「フランスBD世界の人たちと私の接触は、1969年の2月から5月まで、私がスキ―骨折で入院している間に一気に深まったといってよい。その間、暇なので、それまで連絡する余裕がなかった欧米のマンガ関係者に手紙を出し続けたのである」(同上、72頁)。

クロード・モリテルニ(コミック文芸研究協会SOCERLID)からの返事。コミック文芸研究協会の機関誌『フェニックス』。60年代の国際的なマンガの祭典イタリアのルッカ大会。モリテルニ氏はその委員。

1972年10月、ルッカ大会へ招待。ついでに世界一周マンガ関係者出会いの旅行。パリではモリテルニ、フォレスト、フィリップ・ドゥルイエ、ロベール・ジジらにである。

特にアラン・レネとの出会い。『去年マリエンバードで』はSF映画説。

ルッカでのエルジェとの出会い。グィド・クレパックスとの出会い(翻訳『ビアンカ』(1974)へ)。

1974年、ドキュメンタリー映画『キャロル』撮影でパリへ。モリテルニ再会。モリテルニは『ピロット』誌を編集。

1974年、初単著『バットマンになりたい 小野耕世のコミック世界』(晶文社)刊行。アラン・レネルッカ大会の記述あり。

 『キャロル』、キャロルに染みつくアメリカ。
 龍村仁「キャロルは、二人の強烈な個性をもった在日朝鮮人青年に依って、戦後三十年を経た日本の太平状況に向って投げつけられて炸裂した、原色の液体絵具であった。この日本に生れ、朝鮮語をしゃべれず、ロックンロールとテレビジョンに依って育てられた二人の在日朝鮮人青年、あるいは日本人青年の、両極に引裂かれた魂と肉体の激しい葛とうがあの“キャロル”の圧倒的な迫力をつくっていた。“キャロル”とは、朝鮮人の魂を持ち、アメリカ人の姿、形をした日本人の事なのだ。」(『キャロル闘争宣言 ロックンロールテレビジョン論』田畑書店、1975、p286)。

これ以降も多様なBD関係者に出会っている。90年にメビウスと出会う。

3 空洞としてのアメリカ?
 「ただ私は、マンガだけを読んでマンガが語る(論じる)ことは好きではなく、私にとって自然ではない。アメリカのコミックスも。当然のことながら時代ごとのさまざまな大衆文化・政治状況のなかで、関連しながら生きていることを忘れてはならない」(小野(2005)455頁)。

デビッド・マッツーケーリーとの対談

「マッツーケーリー:ところがフランク・ミラーは、元来は神話的な存在であるスーパーヒーローに、現実社会の問題をぶつけたのです。例えば、昔ならバットマンは、世界中の高価な帽子を集めているマッドハッターというような悪人と戦った。この悪人自体も神話的ですから、これはファンタジーとして納得がいく。ところが80年代に、バットマンは麻薬の密売人とか売春など、深刻な問題のある社会で戦うように描かれた。(略) フランク・ミラー以後(略)そこでダークヒーローがはやった。でもよく考えてみると、ケープをひるがえしたファンタジーの存在であるバットマンが、そうした現実問題を本当に解決できるはずはない。ここに矛盾が生じた。ダークにするのはやさしいが、そのさきが問題です。物語を書くライターにとってはこの試みはおもしろかただろうけれど、結局は問題の表面をなぞっただけで、ほんとうに深い内容のものは描けないのではないか、という疑問を私は感じたのです。もともとはファンタジー世界の存在であるヒーローが、あまりに現実的な深刻な事件を解決するとなると、バットマンヴィジランティ(自警団員)またはファシストにならざるを得ない。それは問題です」(小野(2005)320−1頁)

9.11テロは、スーパーヒーローの「容量」を超える<現実>をつきつけた。マッツーケーリーの先見。

9.11テロとアメリカン・コミックブックの基本問題として、小野が指摘しているのが、作品のキャラクターは出版社のものという点。表現者としての作家性の構造的喪失。9.11に際してのアメコミ作者たちの「腰くだけ」は、この「作家もしくは表現者としての、どこか基本的な弱さに由来する面もあったのかもしれない」(小野(2005)469頁)と指摘。

「腰くだけ」→一例:『ダークナイト・ストライクス・アゲイン』でのドクター・ドゥームのグランド・ゼロでの泣き。悪の使徒ではなく<愛国者>に堕落。「約束が違う」。

田中:キャラへの所有権がないことが、キャラの性格を維持するインセンティヴを喪失させてしまうのか。例えばチェーン店は品質を維持することができないか? 世界で一件しかない町のハンバーガーショップと、マクドナルドとはどちらが品質を維持しているのか? 実証ではマック。例えば<愛国者>というトッピングが9.11用として販売された証拠として、小野が指摘したようなアメコミ作者たちの「腰砕け」があったとしたら。それはキャラの「品質」を損ねたとはいえないかもしれない。もともとそういうものであった。小野自身も50年代の国債購入を呼び掛けるスーパーマンへの言及。むしろここでドゥームは泣くべきだった?

「イノセントとしての暴力」→空洞(「容量」を測ることができる容器)としてのスーパーヒーロー。60年代、スーパーマンジョン・F・ケネディの蜜月(小野『スーパーマンが飛ぶ』1979年、晶文社)。

むしろここでは小野の嗜好の変化をみるべきなのではないか。スーパーヒーローものからオルタナティヴへの関心の比重変化?
 
4 空洞を超えて
 戦後のカラー=空洞としてのアメコミを超えて
 <現実>を取り込む 「容器」=「空洞」から<現実>に対峙する「表現者」へ

 アメコミ体験以前の世界の探求。

小野佐世男(させお、1905-1954、マンガ家)の戦時中、インドネシアでの活動の研究。『ジャワ従軍画譜』の紹介。

国際比較のマンガ批評の先駆者鶴見俊輔との邂逅。

「そして横山(隆一)たちが帰国した翌1943年2月、後の哲学者・鶴見俊輔氏が、海軍の軍属としてジャカルタにやってくる。ジャワ島は日本陸軍の管轄だったが(バリ島は海軍の担当)、ジャカルタにはドイツの潜水艦基地があり、日本海軍の詰め所があった。定期的に陸海軍の会合が持たれ、鶴見氏はその席で、計20回くらい小野佐世男に会い、ことばを交わした。いつも自然な態度で、ゆかいな人だったという印象があると鶴見氏は言う。『小野佐世男は陸軍の報道班員だったんだけれども、その場合に彼が無意識の杖としたのが、自分の描線なんだよ』と、鶴見は筆者に語った。つまり戦時中のイデオロギーとしては<鬼畜米英>なのだが、そのような絵を描けといわれても、自分の描線をすでに確立している小野は、描線がイデオロギーを裏切ってしまう、というのである。かんたんにいえば、考えるよりも描線のほうが走ってしまい、敵を描いても、それはいつもの描線で、敵をことさら憎々しくは描けないということか。その描線が、ジャワでこのマンガ家を支えたというのである」(小野「小野佐世男インドネシアで何をしていたのか」『マンガ研究』6号、93頁、2004年)

小野佐世男インドネシアでの<現実>に対する「描線」。

アジア各地の<現実>に対峙する「描線」を求める探求。

著作『アジアのマンガ』(1993年、大修館書店)、現在連載中の『アナトリア・ニュース』でのトルコマンガの紹介など多数のアジア、中近東のマンガ世界への関心の根っこ。

90年代で小野が最も評価する作品のひとつ、ジョー・サッコの『パレスチナ』(2004、翻訳は小野訳でいそっぷ社より2007年刊)。「対象との絶妙な距離感」への賞賛。

アメリカン・コミックス大全

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