『このマンガを読め!』雑感

 ちょっと気になっていたというか、最初読んだときに、「え? それはさすがにないだろう」と思ったことがあった。フリースタイルの『このマンガを読め! 2010』の最後の呉智英いしかわじゅん中野晴行の三者の対談を読んでの驚きであった。この中で、去年、復刊された手塚治虫の『新寶島』をめぐって三者の以下のやりとりがあった。

中野 三月は、『新寶島』の完全復刻版が出ました。
 マンガ界最大の封印作品のわりには、あんまり話題にならなかったような気がするね
いしかわ たぶんみんな『新寶島』がいままで世に出てなかったことを知らなかった。名前だけは知ってるとか、マンガにちょっと興味のあるやつだったら、昔、手塚治虫がこういうものを描いたって知ってるんだけど、まさか世に出てなかったとは思ってなかった。
中野 講談社の全集版(一九八六年刊行)を描き直されたものじゃないってみんな思っていたようですよ。竹内一郎さんやほかの評論家の方でも全集版が本物だって思ってたという人はけっこういらしゃいます。
 そうなの!
いしかわ 絵が全然違うじゃない! 全集版のは、ずっとのちの絵だからね。ひとめ見たらわかるのに。
 全集が出た時点での絵になってるよね(442頁)

 いしかわ氏の発言もまるで一回も世の中に出てなかったような印象を与えるが、僕が買った復刻版(ただし安い方なので高価なのには別な新情報があるかもしれない)では、今回の復刻は初版のものであり、それは世間に戦後流通していたものである。

 さていしかわ氏の発言に驚いたわけではなく、驚いたのは中野氏の発言の方である。竹内一郎氏が「全集版が本物だって思ってた」という。上記の話の流れからするとあたかも今回の復刻が出るまで、竹内氏らがこの全集版をオリジナルだと理解していたように読める。このことに驚いたのである。もちろん、さすがにそんなことはないだろうと。

 僕自身は竹内氏の『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』(二〇〇六年)は先行する主要業績を参照していないことであまり高く評価していない。しかし他方で、この本では復刻版の登場以前に、竹内氏が旧版(今回の初版)と新版(全集版)を詳細に比較対照していることがこの本の中盤の最大の目玉になっていることは興味深いものだった。

「では、私が考える『新宝島』の新しさについて、次にまとめてみたい。手塚は一九四七年に出版した『新宝島』を、一九八四年に全面的に描き直している。自身の全集に入れるには、一九四七年当時のものでは納得できない、という理由である。私は、この二つを比べることで、手塚自身が考える「映画的技法」とは何か、について考えてみる。また『新宝島』における手塚マンガの新しさとは何だったのか、を併せて論じてみる」(118頁)

 以下の竹内氏の両作の比較は確かに手塚がどう「映画的技法」を考えていたのかの論証のひとつとなっていて参考になる。続く第三章の『新宝島』分析と合わせて、竹内氏が本書にこめた中核的な分析といえる。今回の復刻版はさらに読者自身が自らその作業を行う契機になったことだろう。しかし中野氏の発言とそれで盛りあがる三者は、事実上、この竹内氏の著作そのものを(僕の見方が正しければ)正当な理由なくおとしめているようにも思える。

 たぶん誰も指摘していないので書いておきたくなった。

手塚治虫=ストーリーマンガの起源 (講談社選書メチエ)

手塚治虫=ストーリーマンガの起源 (講談社選書メチエ)

完全復刻版 新寶島

完全復刻版 新寶島