雑誌『スターログ』とメビウス(その2)

 1981年4月号(通算30号)で、メビウスの特集が組まれている。これは当時の制作者たちの自覚によれば、最初の日本人によるインタビューであると書かれている。またインタビューアーの加納正洋氏は記事中で、「日本では本誌79年3月号で“バラッド”が紹介されたのみと云う状態だがこれを契機にメビウスが更に浸透するのを祈りたい」という記述がある。この81年の記事にはすでにメビウス大友克洋谷口ジローとの影響関係も書かれていてかなり知られていた事実という印象だ。このスターログの特集をみるかぎり、こと“メビウス”名義ではおそらく日本最初の特集であった可能性が大きいことが当事者の意識から確認できるようにおもえる。 なおインタビューの翻訳は小松沢陽一

 以下はそのインタビューの内容から田中が参考になる点を抜粋

「M:私は日本に非常に恋している(略)」。メビウスは空手、合気道をやり、日本映画が大好き。日本の精神文化にひかれている、と発言。「日本のコミックスも数の上では多く読んでいないが、すべてファンタスティクだったよ」。

 当時のメビウスがディズニーの『トロン』の制作中。世界初のCG本格使用の映画。メビウスが『トロン』が独立系の人材のみで制作されているディズニーらしからぬ作品であると強調している。ほかにルネ・ラルーとの後に『時の支配者』として完成する映画の製作が現在進行中であることに言及。この映画は『スターログ』でも後にメビウスとあわせて再度特集が組まれることになる(後述)。

 田中はこの『トロン』を大学生のときにわざわざ新宿のロードショーでみて激しくがっくりきた。当時は世界で初めてのCG映画と日本でも宣伝が盛んだったが、あまりよく思えず、またストーリーも貧弱なものだった。四半世紀以上も前のCG映画だがいま見たらどう思うかな?(トロンについてはここを参照


 また日本でのメビウスの一般的な貢献として当時わかりやすかったのは『エイリアン』のデザイン(宇宙服)である。それのデザインが20数枚だったが映画のおかげで世界的に有名になったと発言している。下の画像は上がメビウスのデザイン。下が映画での宇宙服のフィギュア


 また映画『デューン』(アレクサンドロ・ジョドロフスキーが監督予定だった)の中止に言言及。メビウスがデザインした「皇帝直属兵士サルダウカー」の実物写真とエッチング、ストーリーボードの一部などが同誌に掲載。サルダウカーの写真は下。

 ダン・オバノンが『デューン』に参加していたが映画が停滞、金欠になったオバノンに脚本を頼み、完成したのが「Long Tommorrow」(田中注:ブレイドランナー風の探偵劇だが、モチーフは異星人とのセックスである。そのうちアップ予定のmimemo「メビウスとセックスの進化」を参照のこと)。『デューン』完全撤退後、失意のうちに書いたのが『エイリアン』のシナリオ。それが制作側に受容され、オバノン、ギーガー、クリス・フォスら『デューン』チームの再結集を生む。

 『メタル・ユルラン』について。重要なので長いが引用。

「M:“メタル”は“ピロット”から始まったといっていいと思う。“ピロット”はルネ・ゴシーニ(“プチ・ニコラ”の原作者です)の主宰で子供雑誌の中でも突然変異だった。しかし“ピロット”に描いている何人かのアーチストは、もっと大人にも通じる本格的な作品を描きたいと思っていたんだ。だから、編集とアーチストの間で当然問題が起こった。おりしも5月革命(68年)の頃で、若気の至りでゴシーニをつるしあげたりもしたのだよ。結局“ピロット”に満足できないアーチストたちは自分たちが本当に描きたいものが書ける雑誌を創刊しようと思ったんだ。そのために集まった仲間がクレール・ブレティシュール、ゴットリブ、マンドリク、ドリュイエそして私だった。なかでもドリュイエと私はSFが大好きで、今までのコミックス誌にはない全く新しいカラーを出そうとしたんだけど、会社作りと運営はきつかった。ジャン・ピエール・ディオネは原作者で私の友人でもあったんだけど、彼もガルといったアーチストを連れて加わって来た。おうして、最初のメンバーとしてはアーチスト、グラフィスト、原作者の3つのタイプの人々が集まった。74年のことだ。しかし問題だったのは、アーチストは会社の経営にも実務にも向かなかったことだ。だから私たちは実務家を探した。それでみつけたのがベルナール・ファルカスという若い人向け出版社の実務をしていた人間なんだ。彼の参加でなんとか軌道にのれたんだ。こうやって“メタル・ユルラン”が創刊され、“レ・ユマノイド・ザソシエ”が設立されたんだ。」

 メビウスはまたインタビュー後半でマリファナの使用を厳しくいさめている。「クスリの奴隷になり下がってしまう。一瞬の自由の支払いは永遠の奴隷になってしまうことだ。支払いははるかに高くつくんだよ」。

 最後にメビウスはこういっている。「M:私は一時メキシコに居たことがある。しかしむしろ、信じてくれるかどうか分からないけど、私は前世に砂漠に生きていた人間の生まれ変わり(リインカーネーション)のような気がする。絵を書き始めるとすぐに広い広い空間が私の頭の中に広がるんだ」。
 
 あとメビウスは好きなSF作家でフィリップ・K・ディックをあげている。ここは納得。

 さてアスカ蘭の活躍で『スターログ』では以後もアメコミ入門の総特集だとかいろいろあるのだが、あまり書いていると経済の勉強の時間がなくなるので 笑 とばしてメビウス関係だけにしぼる。

 1982年7月号(通算45号)では、ルネ・ラルーの『時の支配者』の特集が大きく取り上げられている。ここで小松沢陽一は、手塚治虫メビウス作画監督)、ルネ・ラルーの三者にインタビューを行っている。この『時の支配者』は当時の日本ではまだ公開されていないのをいち早く「スターログ」は特集をしたことになる。ある意味、すごい。この『時の支配者』をはじめルネ・ラルーの映画はいまは気軽にDVDの日本語版でみることができる。すべて観たがこの『時の支配者」がつまらないわけではないけど、一番ルネ・ラルーの作品の中では劣るかも。ルネ・ラルーについては、小野耕世先生の『世界のアニメーション作家たち』が参考になる。ほかには『時の支配者―メイキングブック&アニメコミック』(横山研二、講談社)もチェック(田中未読なので)。

時の支配者〈デジタル・ニューマスター版〉 [DVD]

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世界のアニメーション作家たち

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 メビウスルネ・ラルーとの作業を以下のように語る。

「79年7月に、ルネ・ラルーが僕に声をかけてきたのが、僕がこの映画に参加した始まりで、その夏の間ラルーと2人でアンジェの古城にこもって仕事をした。僕の役割はデッサンでストーリー・ボードを描くことと、映画の作画に当たっての色の指示だ。僕がラルーから呼ばれた時には、彼の頭にすでに映画のイメージがあったし、シナリオもほとんど完成していたので、僕はそれに従ってデッサン(田中注:1200枚)を描いて行った。だから確かにこの映画のイメージの原型を作ってはいるが、正確にいえば、あくまで集団の中のひとつの歯車として協力したのだよ。そういう意味で確かに全く僕の映画と言えないけど、キャラクターや絵のタッチを子供向けに変えているわけではなく、ルネ・ラルーが私のデッサンを基に、監督として最終的には彼の世界に作り替えているからだ」。

 また『トロン』の方が脚本が抽象的なので、、スティ−ブン・リースバーガー監督は、メビウスのファンでもあり、デッサンに忠実に映画を撮影していると述べている。また日本のアニメ(当時フランスで放送されていた「グレンダイザー」や「キャプテンハーロック」をワクワクしながら見ているといっている)。

下は『時の支配者」のデッサン


 

 また同号の特集では手塚が、アングレームでのメビウスとの出会いについて述べていて、『時の支配者」とキャラクターデザインを大友が行った『幻魔大戦」の比較をすすめている。

 さて1982年8月号ではその『時の支配者」が第一回国際SFアート大賞展の企画として西武百貨店池袋で「やぶにらみの暴君」ほかと上映される告知がある。巻頭に織り込みの特大チラシつきである。宣伝はルネ・ラルーではなく、あくまでも「スーパーアーチスト、メビウス描く アニメ大作」というふれこみであることが眼をひく。このチラシで興味をひくのが「日本でも、海外コミックスに関心のある人、まんが家には絶大な人気を得ているが、作品が翻訳されたのは一度だけ」とあり、同誌の「バラッド」がそうであると明言していることである。メビウスの日本導入史として注目していい記述である。つうか、ルネ・ラルーがどこかへ吹き飛んでるのだが 笑。

 さて第一回国際SFアート大賞の国内選考や海外審査の経過などが同号のメインである。メビウスも海外審査委員であり、メビウスが同年の7月から8月にかけて来日の告知がある。

 この来日では会場でサイン責めにあったと報道された。この82年が日本でのメビウスの一般的な受容のひとつのピークであろう。西武文化との関連もチェックの必要。

 『スターログ』82年10月号は、その来日の興奮をそのまま引きずり、巻頭で『ARZACH」のポスターを織り込む。また『トロン』の映像徹底解剖、そしてメビウス以後のヨーロッパのアーチストを紹介する実に広範な「EUROPEANVISUAL NOW」の特集に接続していく。ここには『メタル・ユルラン』の簡単な解説からはじまり、ほかにはビラルの紹介など、そのほかにもいまでは忘れられているいろんなフランスの短編、作家、雑誌がぞろぞろ11ページにわたって紹介されている。


 さてメビウスの本格的な日本紹介はこの『スターログ』を通じて行われ、それは82年にそのピークを迎えている。この後もメビウスは登場する(例:下記の1984年2月号の表紙など)のだが、今回はここまでとしておく。なぜならここはやはり経済ブログ 笑 であり、そろそろ僕も本業に戻る時間だからだ。