草稿:原田泰の経済学

 これは石橋湛山賞を記念して某誌に寄稿予定の草稿のさらにプロトタイプ。掲載誌がでたらいったん削除予定(後にまた復活予定)。


原田泰の経済学(以下は草稿なので無断引用・転載厳禁)

1 高貴の道徳を求めて

 「都会の生活は非人情であり、そしてそれ故に、遥かに奥床しい高貴の道徳に適つてゐる」−−これは詩人萩原朔太郎の言葉である。非人情ゆえの高貴の道徳、それはなんと魅力に溢れた修辞だろうか。そして私が原田泰さんのお仕事の魅力を一言で表現するならばこの言葉を置いてほかにはない。実は萩原朔太郎の文章を知ったのは、原田さんの著作『都市の魅力学』(文藝春秋社、2001年)を読んでのことである。
原田さんがいままで取り組んできた膨大な著作群をとりあえず分類すると、(1)歴史分析、(2)俗説・通説批判、(3)都市論、(4)人口論、(5)アジア経済論、(6)金融政策を中心とするマクロ経済論争 などに分かれていると思う。その中でも要の位置にあるのは、今回石橋湛山賞の栄誉に輝いた『日本国の原則』を代表とする歴史分析であろう。しかもただ単に過去の死せる歴史を祖述するのではなく、歴史の中に未来を見出す生ける歴史分析となっていることが特色だ。
私が最初に読んだ『都市の魅力学』も都市論の中に含まれる業績ではあるが、やはり日本の近現代の都市の盛衰を今日的視点からするどく描いた未来への展望や処方箋を与える「生きる歴史」の物語となっている。「高貴の道徳」が登場するのは、以下のような文脈においてだった。
都市では田舎と異なり、人は過去を問われず、未知の隣人としてある意味「非人情」で生きている。都市は匿名で生きることを可能にし、地縁血縁のしがらみから魂の自由を得た個人に野心の実現の機会を提供する。しかもその野心が都市生活の秩序と折り合うことで、「高貴の道徳」さえ実現することができるだろう。匿名としての主体ゆえに保有することができる魂の自由と「高貴の道徳」。これが著者の最も強調したい「都市の魅力」である。
実はこの前段で、都市が都市であること、すなわち消費や投資の集積地帯として発展するためには、まずさまざまな規制からの経済的自由が担保されていなければならないことが強調されている。つまり経済的自由の実現、それから魂の自由と「高貴の道徳」の実現へ、という因果の流れが、原田さんの著作には通奏低音のように流れている。では非人情の人間関係の中で実現される「高貴の道徳」の内実とはなんだろうか? それを知るために私たちは原田さんのエコノミストとしての原点にまで遡らなくてはいけない。

都市の魅力学 (文春新書)

都市の魅力学 (文春新書)

2 経済的合理性と経済的自由の経済学

 原田さんは1974年に東京大学農学部農業経済学科を卒業後、経済企画庁に入庁して公務員としてのキャリアを始めた。数年後、ハワイ大学に一年、イリノイ大学でさらに一年、経済学の勉強のために海外留学を経験した。このときの体験談が、原田さんの処女作『アメリカの夢と苦悩 エコノミストの留学体験記』(東洋経済新報社、1982年)となって世に出ている。この二つの大学でエコノミストとしての基礎的な視点が養われた。具体的にはシカゴ学派の色彩の強い、応用ミクロ経済学の発想である。アルチャンやハーシュライファーらのテキストから大きな影響を受けたという。後に世の中で「通説」として信じられている観念を、経済学の基礎から批判的に解き明かしていくという原田さんの態度はこのときに形成されたといっていいだろう。例えばハワイ大学で出題された問題には、「砂浜を二倍にする発明は無価値か」というものがあった(この問題は著作『経済学で考える』(日本評論社、1985年)に再録されている)。砂浜を二倍にすると既存の砂浜の価値は暴落してしまう。ではこの発明の社会的価値はマイナスなのだろうか? もちろん答えはノーである。砂浜の価値は暴落しても社会的総余剰が増大しているのだからその発明は有意義である。この砂浜を米や牛肉さらにはさまざまな規制の下にある市場として読み替えれば、原田さんが学んできた経済学がどのような特徴をもっていたかがはっきりわかるだろう。このような経済的合理性と経済的自由の経済学を徹底して学んできたことが、原田経済学の基礎を構築したのは間違いない。
 そしてハワイ大学イリノイ大学でアジア各国や環太平洋の国々の若者たちと非人情ならぬ情に富んだ交友関係を構築したことも重要だった。アジアやアメリカなど環太平洋の国々と日本がどのように近現代において緊張と宥和の歴史を刻んできたか、それをどのように経済的合理と経済的自由の観点からとらえるのか。原田さんの経済学に環太平洋における日本という空間的な視座が確立され、それが歴史的な深みをもっていったのもこの留学経験が大きい。後年におけるタイでの勤務(1985年から88年にかけて)もこの太平洋における日本という観点をより豊かにしたと思われる(『タイ経済入門』(日本評論社、1988年)など)。
 もちろん日本と環太平洋の国々との交流は綺麗ごとだけではすまないだろう。政治的なイデオロギー歴史観・体験の相違が深刻な意見対立をもたらす場合も多い。原田さんは留学時代に目撃したある日本の老ジャーナリストとアジアからの女子留学生との議論を紹介している。留学生が中国の「大躍進政策」を肯定的に捉えているのに対して、老ジャーナリストが「大躍進政策」が「政策の失敗」であることを実に冷静に議論していたことを印象深く留学記に記している。
 「彼女は、中国に関する彼女の考えを変えたかどうかは分からない。しかし、彼は、彼女に考え直してみようという気にさせたことは確かだと思う。(略) 彼の議論は、事実を丹念に追い求め、そこに権威主義や事大主義と無縁の、自分の頭で考えた合理的な解釈を与えようとするものであった。彼の議論は穏やかであるが、力強かった。私は、アジアの学生と穏やかに対決する、この白髪のジャーナリストを素晴しいと思った」(『アメリカの夢と苦悩』90頁)。
 現在の原田さんにとってこのエピソードがどのくらい重いものかはわからない。しかし私には原田さんが後に展開していくさまざまな経済論争における態度こそ、この老ジャーナリストと同様のもの(事実を丹念に追い求め、そこに権威主義や事大主義と無縁の、自分の頭で考えた合理的な解釈を与えようとするもの)に思えてしかたがない。

経済学で考える (エコノブックス (8))

経済学で考える (エコノブックス (8))

3 原田泰の歴史的経済学

 権威主義や事大主義と無縁の、自分の頭で考えた合理的な思考が、異なる意見をもつ人たちとの議論を可能にし、それが広い意味で他者との交流を可能にしていく。これが原田さんの考える「高貴な道徳」の内実ではないだろうか? いわば合理的な思惟と事実への敬意に裏付けられた一種の「社交術」である。だが日本の歴史を振り返ると、このような社交術としての「高貴の道徳」が絶えず実現されてきたわけではなかった。「高貴の道徳」の必要条件であった経済的自由を抑圧する活動が、日本の近現代においてしばしば活発化していたのも事実である。
 原田さんの歴史的経済学の出発点となったのが、香西泰氏との共著『日本経済 発展のビック・ゲーム』(東洋経済新報社、1987年)である。日本の近代から現代までの長期経済発展は、プロフィット・シーキング活動(利潤機会を追い求める活動)が中心になっていたためであり、他方でレント・シーキング活動(政治的な手段―保護関税、補助金、輸入規制等で利益を得る活動)の占める割合が日本経済で少なかったからである、という命題を原田さんは全面に打ち出している。そしてプロフィット・シーキング活動を中心にするような制度(私的所有権制度)構築の重要性を説いた。直接にはダグラス・C・ノースの制度の経済学の影響が見られるが、同時に原田さん独自の「日本国の原則」がこの著作に明白に表明されていることがより重要である。
 今回の石橋湛山賞受賞作『日本国の原則』で提示された「日本国の原則」こそ、プロフィット・シーキングな社会を築いていくことであり、より一般的にいえば経済的自由の確立であった。そしてこの「原則」から逸脱したことで、日本は不幸な戦争や長期停滞に陥った、というのが、今回の受賞作の提起した最も重要な成果であろう。いわば戦争が利益を生むと信じた利権集団(軍部、政治家、企業など)がそのレント・シーキング活動を活発化させることで、やがて日本が植民地拡張・軍備拡大への道を歩んでいったのである。
 このような原田さんの歴史的経済学は、まさに石橋湛山が戦前に日本の植民地放棄を唱えたものとまったく同じ論理に立脚する。湛山は当時の対外膨張政策が、まったく経済的な利益にかなわず、むしろ貿易の自由化をすすめた方が日本の国益に適うことを説いた。つまり湛山も原田もともに「日本国の原則」を、経済的自由の原則として理解していたのである。
 原田さんの歴史的経済学のルーツは実は経済企画庁時代に先駆けてのものだ。ご本人へのインタビューによれば、大学時代に所属していた自主ゼミで、映画評論家の佐藤忠男氏の指導をうけ、日本の戦前の映画(溝口健二小津安二郎など)を数多く見、また映画評論「カリガリ博士ドイツ表現主義」を書いたことなどにも明らかなように、歴史的経済学の祖形に映画史への関心があったことは間違いない。実際に、私が最も愛読している原田さんの著作である『世相でたどる日本経済』(旧題『テラスで読む日本経済の原型』、日本経済新聞社、旧版1993年、新版2005年)は、まさに映画史と経済史との幸福な共演を実現した好著である。

世相でたどる日本経済 (日経ビジネス人文庫)

世相でたどる日本経済 (日経ビジネス人文庫)

 
4 失われた10年の経済論争での活躍

 ところで石橋湛山は、戦前の昭和恐慌期において、不況を脱出するために、一連のリフレーション政策(デフレを脱して低インフレを目指す政策)を主張したことで知られている。「リフレ」という言葉を日本に始めて紹介したのも湛山が最初であろう。そして現実にもこれに類した政策が高橋是清らによって採用され、日本は経済停滞から脱しえた。このようなリフレ政策を重視した石橋の基本的な視座というのは、人間の可能性を発揮することによって生産力を伸ばし、人間中心的な経済を実現することに置かれた。湛山にとって、人間性を最も破損させるのは失業であると考えており、これを避けるために経済が円滑に機能するような低インフレ政策を実現することが極めて重要であった。
 そして時代はまさに「失われた10年」(この言葉も原田さんの造語である)という長期停滞に再び陥ってしまった。しかも残念ながら、10年にだいぶ加算されこのままでは20年にまで及びかねない。原田さんはこの長期停滞について、いわゆる「リフレ派」としてまさに湛山の伝統を継ぐものとして論争に貢献している。
 この「失われた10年」の経済論争に関わるきっかけは、『狂騒と萎縮の経済学』(東洋経済新報社、1994年)の出版であった。同書では、80年代末のバブル経済の発生と90年代初めのバブル経済の破綻は、ともに日本銀行の金融政策の失敗である、ことを明らかにしたものであった。そして90年代前半から実体的には始まっていたデフレ不況について、原田さんは「デフレは貨幣的な現象である」という経済学の当たり前な真理で解き明かした。
 しかしこのような当たり前な真理は日本の経済論壇や政策の場では、当たり前なものとしては受け取られなかった。バブル経済の発生と破綻に関して、原田さんと同様の見解を積極的に展開していた岩田規久男教授らとともに、当たり前の真理を拒否する人たち(多くは事大主義や技術的な瑣末にこだわる人たちであったが)とのいわゆる「マネーサプライ論争」が勃発した。以後、原田さんは日本銀行の「政策の失敗」を事実と合理的な推論で実証する作業に文字通り一身を捧げてきたといえる。
また90年代前半は原田さんの経済学修行の第二幕ともなっていた。一例として、「合理的期待革命」以後のマクロ経済学業績をわかりやすく書いた国内のテキストとしては先駆であった『ゼミナール マクロ経済学入門』(新保生二、西崎文平との共著、日本経済新聞社、1990年)では、ルーカス、サージェントたちのマクロ経済学を学び、「これでマクロ経済学、金融の問題について書くことに自信が持てるように」(原田さんからの私信より)なった。
 ところで、「マネーサプライ論争」後、いよいよ日本の経済停滞が深まるのをうけて、経済論争は過熱していった。この長期停滞論争については、『日本の失われた十年』(日本経済新聞社、1999年)、『日本の「大停滞」が終わる日』(日本評論社、2003年)などの啓蒙書や、『デフレ不況の実証分析』(岩田規久男との共編著、東洋経済新報社、2002年)、『長期不況の理論と実証』(浜田宏一との共編著、東洋経済新報社、2004年)といった専門的業績でそれこそ「必死に書き続け」(原田さんの言)た。この過程で、私も原田さんと面識を得て、やがて同じ湛山の伝統を継ぐ「リフレ派」としてともに『昭和恐慌の研究』(岩田規久男編著、東洋経済新報社、2004年)を書いたのは僥倖であった。なお同書は同年の日経・経済図書文化賞を授賞している。
原田さんの大停滞の経済学を簡単に説明しておく。それは日本銀行が、「誤った政策思想」に取り付かれているために、適切な金融政策を採用することができなかったためであった。「誤った政策思想」とは、中央銀行がマネーをコントロールすることができず、またマネーは民間の資金需要に受動的に応じて供給するしかない、という考えに要約される。この政策思想に立脚すれば、経済が停滞しているから、それに応じてマネーサプライを減少することになってしまい、景気は回復するどころか反対に急激に冷え込みかねない。実際に、90年代に入ってからマネーサプライとGDPはともに極端な変動と落ち込みをみせている。物価はマネーの動きで決まるために、やがてデフレを伴う深刻な不況が訪れた。そしてこのデフレの進展が名目賃金の硬直性と「衝突」することで、高い失業率や多くの倒産を伴う日本に大停滞が出現したのである。

昭和恐慌の研究

昭和恐慌の研究

5 おわりにー後輩エコノミストからの一言

 80年代から00年代までおよそ30年近くに及ぶ原田さんのエコノミストとしての仕事をこの数少ない紙数でまとめることは、私にはなかなか難しい。むしろ原田さんの業績を評価するというよりも、ひたすら経済論戦に関わる一「後輩」エコノミストとしての先輩への羨望を語るのみである。実は本稿を書くまで、私はあまり原田さんの私生活や経歴を知らなかった。いままで多くの酒席や談話の場をともにしていてもである。その意味ではまさに「非人情」である。だが私はそれこそ「高貴な道徳」としての社交術であったような気がしている。「後輩」の私が魅せられたのはまさに、原田さんの合理的思考の結晶そのものだったからである。

日本国の原則―自由と民主主義を問い直す

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