ドラッカーと大河内一男、民営化とナチス


 昨日出席した研究会で、ピーター・ドラッカーの処女作『経済人の終り』と、それを意識していた大河内一男(『スミスとリスト』の附論での「経済人の終焉」)との類似と相違という論点は、両者の自己利益最大化=合理性に対する批判として読むと興味深く、他方で前者は明白なナチス批判であるが、後者はナチス的経済体制を必ずしも全面否定していない点で差異がある。

 ドラッカーの本についてのまとまった要約はこの方の感想に詳しい
 http://blog.goo.ne.jp/vergebung/e/a882b2fc35373effa117b603d0460f52


 また関連する話題としてブログhttp://economistsview.typepad.com/economistsview/2006/09/the_origins_of_.htmlで紹介されていた以下の論文も興味深い。

Bel, Germa'. 2006. ""The Coining of "Privatization" and Germany's National Socialist Party." Journal of Economic Perspectives, 20: 3 (Summer):
http://www.atypon-link.com/doi/abs/10.1257/jep.20.3.187

 ドラッカーが「民営化」privatizationという言葉を使用した最初の例として信じられているが、実際にはドラッカーが『経済人の終り』を書いた頃に、ポール・スウィージーが「再民営化」reprivatizationという言葉を使ったのが最初。彼はナチスの国有企業の「民営化」をその言葉で意味し、ナチスの政策は「民営化」によって資本家層の投資の刺激、公衆の消費の抑制などを目指していた、というものだという。

 あとで付記するかも