貨幣カルト性とネット蝗


 最初に関係ない話で恐縮だが、ネット蝗で思い出したのだが、いま池袋のジュンク堂で「虫を食む人々」展とかいうのをやっていて、イナゴのつくだにが売っていた。ネット蝗も佃煮になればいいのに 笑

 さて本題。

hicksianさんの感想http://d.hatena.ne.jp/Hicksian/20080225をみて、これは見事に胸中を読まれたと思ったのが以下のコメントでした。


:self-deception(自己欺瞞)の回避あるいは「特定の私」への過度の執着からの脱却、ではなかろうかと妄想するわけでございます‥‥例えばグローバリゼーションが可能にする国内での文化的多様性の増大(=within variety)は、多様性の増大そのものが好ましいことに加えて、文化的多様性の増大=「違った私」になる機会と可能性との拡張、を意味するが故に好ましい:


 まさにこの方向に興味があるのです。最近のブログの経済学(ハイエクでもなくハーバーマスでもなくとか)もそうですが、例えばマクロ経済的な関心でもこの「特定の私」への過度の執着を問題にしてきたともいえます。例えばデフレが強まると自己実現的に貨幣獲得欲が増大してしまいます。


 安達誠司さんとの共著『平成大停滞と昭和恐慌』の中にあるデータですが、デフレが進行するとともに家計・企業ともに現金保有比率が90年代後半から00年代初めにかけて急上昇しました。03年時点で、家計は6.7兆円、企業は5.6兆円が余剰な現金として退蔵されていたわけです。


 貨幣は異なる自分を実現するための手段でしかないと思います(もちろんお金で買えないものもありますがお金を利用することで人生の機会が増加するのも事実です)。しかしデフレが強まると他の財・サービスや多くの資産に比較して貨幣価値が増加してしまう。このことで貨幣を保有するそのこと自体が自己目的化するのです(裏面で消費や投資などの経済活動は停滞してしまう)。


 貨幣を過剰に保有することを目的とする「特定の私」が出現するわけで、その意味では社会的カルト状況が現出しているともいいかえることが可能なわけです。


 この種の貨幣カルト性を解くためには、小野善康さんが指摘したように世代が交代するのを待つ=人間が代わるのをまつ(あるいは産業政策でそれを促す)という自己改造のマクロ版があります。この小野さんの考え方には、僕はネタとしては反応するけれども、僕はそんなに人間の意志の強さを信じてないわけです。意志で「特定の私」の過剰な執着を変化させることは可能ですが、確実でもないし、やり方も具体的ではない(→産業政策への懐疑にこれはつながる論点となります)。例えば人間の意志の強さを単純に信じた結果がポルポトなどの大虐殺のひとつの淵源ではないでしょうか?


 むしろ僕は(今度の本でクルーグマンの子守り組合の話を持ち出して説明したように)金融政策でデフレを解決することでその貨幣カルト性を解いてやったほうがはるかに容易だと思っているわけです。また貨幣に過剰に執着する「特定の私」が解き放たれ、貨幣の自己目的化が緩むことで、貨幣本来の役割ともいえる多様な自分の実現への経路もひらかれるわけですから。それが今度の本の冒頭でも書いた「お金がすべて的経済学とは違った経済学」の核心部分ともいえます。


 この貨幣カルト性の問題で検討した「特定の私」の過度な執着=カルト性という論点は、また最近、このブログで考えているブログの経済学のテーマにもなっていくと思います。まだ先行文献を読んでいる段階ですのではっきりというのはまだすこし後にしますが。


 いま読んでいるのが、アンドリュー・キーンのThe cult of the AmateurとサンスティーンのRepublic.com2.0です。この本については以下のブログが参考になるでしょう。


実質マイナーアップデートだったサンスティーン『Republic.com 2.0』
『the cult of the amateur』と『ウェブ進化論』

 ただ僕のこの二冊の本に対する評価は、特にmacskaさんほど低評価ではなく、むしろ逆の高評価になりそうです。1.0を読んでいないで最初から2.0のせいもあるのでしょう。実にサンスティーンの議論は刺激的です。


 文化カルト性への緩和について、あとで韓流ブログの方でエントリーの予定(最近、読者が3桁に安定的にのってきた、頑張れ韓リフ 笑)。