マイケル・ムーア映画+α評


 前に書いたのを名無しさん風味にちゃんとしたもの。それだけ哀愁。


マイケル・ムーアと日本の“改革”の行方


マイケル・ムーアドキュメンタリー映画を撮る映像作家として国際的に著名な人物である。彼はまたブッシュ政権の容赦ない批判者としても有名である。そのムーアの新作『シッコ』がお盆明けから全国公開されて評判をよんでいる。


映画の狙いは鮮明である。現在の米国の医療保険制度が、人間の価値よりも金銭的価値(効率性)を過度に重視することで、社会そのものがおかしくなっている描くことにある。そして『シッコ』は、医療制度の歪みを辛らつかつユーモアを交えて描くことに成功していた。


 映画の中で描かれた米国の効率性重視がもたらす弊害は驚くべきものがある。映画の中で描かれている人々は、民間の医療保険に加入している人たちが中心である。しかし多様な免責条項のために医療費の支払いができず、家屋を放棄しなければならなかったごく普通の中流家庭がまずでてくる。そして保険の適用ができないために緊急治療を放棄された子どもの死、患者が点滴の管をつけたまま車で路上に捨てられていくエピソードなどが続いていく。米国の乳児死亡率の高さと先進国中での米国の医療制度レベルの低さなどが繰り返し強調される。観客の良心やモラルに訴求するムーアのパノラマ的ともいえる映像処理はすごいものがある。本作をみれば、一部のエコノミストや政治家が「社会主義的」なものを打破するために構造改革を行うのだ、という日米でお馴染みのレトリックには要注意が必要だとも気がつくだろう。


 映画が描いた米国の医療制度は、患者からの請求をカットするために病人の切捨て(効率化)をするシステムだろう。その一方で本作で描かれたカナダ、フランス、イギリス、キューバの医療制度は、病人を救うことで、経費を切り捨て(効率化)するシステムとでも表現できると、少なくともムーアはこの映画で示唆している。もちろん国民の税負担の問題も指摘しているが、それでも国民の厚生改善は効率一辺倒よりよほどいい、というのがムーアのメッセージだろう。


 雑誌『クーリエ・ジャポン』9月号に経済学者ポール・クルーグマンの『シッコ』評が翻訳されている。彼もムーアと類似の指摘をしてる。


「「無節操な私利私欲が不道徳なことを、私たちは常にわきまえてきた。そしていま、私たちは、それが不経済なことも知った」
 これはルーズベルト元大統領が語った言葉だ。これはそのまま、現在の米国が直面している医療問題に当てはまる。米国の医療改革は、いわゆる“痛みを伴う改革”ではない。それどころか、正しく機能すれば費用対効果も上がる。国民皆保険制度の導入は、毎年多くの国民の命を救うと同時に、経費削減にもつながるのだ」。

 この『シッコ』の問題を日本の文脈で置き換えてみよう。例えばエコノミスト門倉貴史森永卓郎らが、派遣労働者法が労働者の働く選択の自由を拡大するどころか、生き方の制約になってしまっていると指摘していることに通じるものがある。


派遣労働者法の改正による規制緩和が、中長期的に非正規労働者を激増させ、なおかつそれが経済格差の拡大という形で、社会の不安定を生み出すならば、その社会的コストをいずれ国民が分担しなくてはならないだろう、というのが門倉氏や森永氏らの議論であろう。


門倉氏らは明言はしていないが、このような深刻な市場の失敗には、再規制することで中長期的な経済格差の拡大を防ぐのが有効である。もちろん短期的には非正規雇用の職が規制強化で失われり、雇用コストの増加でグローバル化に適応できなくなるという反論が予想される。しかしそれは真の問題ではなく、あまりに“改革”を効率中心主義に解釈している、というのがムーアや門倉氏らに通じる問題意識である。問題はむしろ古典的な効率と衡平(社会的なモラル)とのトレードオフである。この両方の経済・社会的価値にどのようなバランスをとるか、これが安倍改造内閣も含めて今日の日本の“改革”が求められる視座であろう。