人間関係希薄化をめぐる視点(山形浩生vs山田昌弘)


 『国民生活白書』をめぐる見方の異なる論説を続けて読む機会がありました。ひとつは『サイゾー』8月号の山形さんの「山形道場」です。


 山形さんは、『国民生活白書』での(家族、地域、職場での)人間関係希薄化への警鐘に異論を提起しています。人間関係の希薄化は皆が望んだことなのだからと。濃い人間関係はもはや面倒なだけではないか、そして互助組織みたいなものに全面的に頼らなくてはいけない社会ではもはやないから(それだけ豊かになったから)、人間関係が変化したのだ、と。


 もちろん「人間関係」というのは複雑なものですし、山形さんの主張は、この「人間関係」が希薄化したからといって、それを政府が音頭とってどうなるもんじゃないだろう(人々が自発的に選択した結果であることが濃厚だし、市場の失敗という明白な証拠はない)、ということでしょう。


 それに政府はおせっかいはやめて、経済の安定化に邪魔にならないようにしていれば、社会関係資本も充実していくことが、ある種の実証研究でも支持されています。


 例えば宮川公男ら編著『ソーシャル・キャピタリズム』のアスレイナーによるパットナム批判参照。多分に、『国民生活白書』はパットナム的な議論をしていると思う*1。循環的問題重視の要素もある野心的な白書なんだけども。


 山形さんと対照的なのは、月曜に出る予定の『週刊東洋経済』の山田昌弘氏の論説「良好な人間関係が業績向上に不可欠」です。規制緩和での非正社員増加や成果主義導入でコストは減少したが、職場の人間関係は悪化し、正社員・非正社員ともに幸福でなくなっている、という状況がうまれ、目にみえないところで企業業績をひっぱっている可能性がある。もちろん昔の濃密な人間関係には戻れないので、非正社員と正社員の待遇格差を縮小し、特に非正社員を正社員並みに待遇し、成果主義の評価システムの中に他人との協調性を考慮するものを構築する必要がある、というものです。


 しかし、職場の風通しの悪さや人間関係の悪化(プライバシーを侵害されてるとか、上司が残業してると帰れないとか、飲み会でないと会議できないとか、専門違うのにみんな一箇所に半日も閉じ込められて人のわからない報告を我慢して聞くとかw等など)は、他人との協調性によって評価されることで払拭されるのだろうか? むしろ悪化してしまうんじゃないのか?


 そもそも業績の低下している企業が、人間関係が希薄化しているのではないだろうか。いじめやらパワハラやら全体主義的自決給料返上やらで、人間関係の雰囲気を悪くして、そういう企業にかぎって経営陣が構造改革おバカになって内向きな組織いじりを繰り返し、ますます社員の雰囲気悪くしているだけじゃないのか?


 つまり、『国民生活白書』に記載されている職場の人間関係と業績との関係についてのアンケート調査での結果*2は、山形さんやアスレイナーのように、人間関係の希薄化を好ましいと思うことを可能にしていた経済的な環境がおじゃんになったために生まれたものじゃないのか? 政府と山田さんの主張は因果関係が逆のように私には思えるのでした。

*1:アスレイナーの議論については旧ブログのhttp://reflation.bblog.jp/entry/90914/を参照ください

*2:業績の悪い(良い)企業と人間関係が悪い(いい)との関係