笠信太郎のものの見方について(朝日新聞論説の一起源?)


 笠信太郎はてなでもwikiでもないのでいまやどんな人なのかわからないかもしれないけど、簡単にいうと朝日新聞の今日まで続く論説の主調音を築いた人。で、昨日の「戯言」はこの人の言説が「オレみたいに頑張る」主義が中核ですよ、ということにいまさらながら再確認して、それをどう論文の形に伸ばすか試行錯誤中という話でした。



 笠の『ものの見方について』というのは、昭和25年に刊行されてからしばらく角川文庫などにも収録されていまでも読んでいる人がいるかもしれない。それだけ影響力があった本。これも「オレみたいに頑張る」主義が全開なわけです。


 本書はフランス、ドイツ、イギリスのものの考え方を紹介した後に、じゃあ、日本の「ものの見方」はどんな「形式」だろうか? というのが主要テーマです。この本の書かれた背景には共産主義vs非共産主義の国内的対立が意識されていて、これを「国民的な共感と合意」を成立させて対立を解消すること、そのための前段階としてそもそも「国民的な共感と合意」が成立するには、「ものの見方」の「形式」が同じでないと話にならない、という主張のものです。これだけ読むとまったく言語や論点の違う人間同士の議論が不毛になるから同じ言語や論点などで考えましょうね、というよくある話でしゃんしゃんという感じですが、先に書いたようにその「ものの見方」の「形式」が、「オレみたいに頑張る」というものになっているからかなりバカらしい話に思えてくるのでした。ちなみに私はこの本をいまから30年近い受験期に必読書リストの中に登場していたことを思い出します。同年代ではそれで読んだ人も多いはず。


 で、どんな風に「オレみたいに頑張る」のかといいますと、まず日本はたとえば明治維新に代表されるように、いろんな思想を「輸入」してきた、しかしそれはちっとも日本の現実にそぐわない、笠は考えるわけです。まあ、インタゲとかは「輸入学問」だからだめみたいは話はいろいろ最近でもありました。


 たとえば経済学でも笠は外国と日本では違うものが必要とされると考えてます。


一例、「たとえばスイスという小さな、山ばかりの、資源といっては一塊の鉄も石炭も持たない国が、どうして今日の富と高い生活水準をもつようになったかということを考えてみたい。それにはむろん、いろいろの理由はあろうが、やはり経済ということに対する国民のまじめな関心が底にあると私は見ている。略 規律のある勤倹生活がなければ、それは不可能であったろう。略 国内の政情が安定し、社会に波風の少ないこの国の現在では、政治は勢い経済問題に全力を集中することにあるように見えるし、貨幣価値の安定を中心に、経済政策を失敗しないことが、政府の最大関心事であり、国民もまた、如実に自分たちの生活に響いてくる国の経済政策を油断なく見守っている」とスイスを評価します(太字引用者)。


 それに対して、日本の方は「国民のまじめな関心が底」にないので、スイスのような貨幣価値を安定化し長期的に資本蓄積が実現できる環境を整える「ふつうの経済政策」が適用できない、と笠は主張しています。いいかえると「オレのおめがねどおりに日本国民は頑張ってない(スイスは頑張ってる)ので従来の経済政策は適用不可能、日本なりの輸入ではない経済学が必要、ということです。

 やや専門的にいうと生産的労働・消費は「オレみたいに頑張ってる」のですが、サービス産業などは不生産的労働・消費なので「オレんみたいに頑張っていない」ことになります。

「個人個人、家々の生計が合理的であることは、社会の消費に合理性があるということであって、それはこの消費に対応する生産の合理性を導くことになろう。 略 日本の家庭ほど、物の役に立たぬガラクタを沢山もっている生活ぶりはない。こういった生活は、勢い、いつまでもガラクタを生産する経済を維持しつづけることになる。粗悪で、壊れやすく、その場しのぎの、安物をつくる経済、消費者にも生産者にも、結局において蓄積を妨げる特有の経済が、持続されることになろう。かくて日本の工業は、その商業的な側面のみに力瘤がはいり、技術そのものを売り物としなければならない本物の工業は、なかなか進みかねているのである」


 笠は個人的な合理性と社会的合理性の不調和(合成の誤謬)の可能性を重視するよりも、むしろ個人的なレベルでの合理性(蓄積経済=生産的労働・消費)と不合理性(ガラクタ経済=不生産的労働・消費)の不調和で考えています。そしてこの対比はそのまま現実の「本物の工業」vs「商業力瘤工業」の対比となってあらわれ、彼には後者は日本の「遅れ」、こーぞー問題としてたち表れていくわけです。


 もちろん「本物の工業」がリードしない経済のあり方とみえるもの、株価の上昇、地価の上昇もすべて「本物の工業」=「オレみたいに頑張る」経済のあり方ではないので否定的です。もちろんこのような「オレみたいに頑張る」価値判断の中には、規制による資源の不効率な利用を批判するといった経済学的には正しいこーぞー改革も含まれて渾然一体として主張されることになります。ですので規制緩和などの構造改革、財政・金融政策などの「オレみたいに頑張る」わけでない政策の果実の原則的否定→「バブル」批判への接続、「オレ笠」の望ましい産業のあり方を目指しての「介入」=産業政策の支持などが渾然一体となることで、朝日新聞は今日でもこーぞー改革支持であるとともに根強い「バブル」ファイター兼マクロ経済政策批判者として君臨しているわけです。ついでに「輸入学問」批判=『日本経済学」の志向者ともなっているといえましょう。というか「輸入学問」に頼ること自体を日本のこーぞー的「遅れ」と認定しているわけです。

以下の記述が昭和25年であることを思い出して読まれるとさらに興味を引きます。引用の()書きは田中の注


「身近をかえりみても、気づくことがいくらもある。何よりも、なんという規律のない執務状態であろうか。訪問や会談の、なんと冗漫で、秩序がなく、時間を食うことであろうか。官庁や新聞社など、なんと膨大な従業員であろう(日本型雇用制度の悪弊!w)。それは世界に比類を見ないものだ。企業と企業の間では、社会的にまったく意味のない激甚な競争をやっている(過当競争の指摘!w)。その競争のやり方は、技術を進め、商品の質やサービスを向上する方向には、向かっていない。宴会や贈賄の多いことも類があるまい。それが産業の費用を高め、商品のコストを大きくふくらませているような国(高コスト構造論!w)がほかにあるであろうか。そしてその国民経済が小さいのに、消費生活の面は、料亭、待合、キャバレー、バー、カフェー等等の数のすばらしく多いこと、これは日本の都会の特徴である(「本物」志向と「バブル」景気批判!w)。略 もちろん私は、こういった不均衡で不安定な調子が、長く続きうるとは思わないけれども、それと気が付くときは、国民生活としては、ずいぶん不経済をやったあとだということになろう」。

 後に笠はこの主張を高度経済成長まっさかりの状況を、「バブル」だと批判する「花見酒の経済」でさらに敷衍していくことになります。

 ところで笠はスイスの観光産業には「オレ笠」を理由にして好意的ですが、彼の「オレ笠」からするとラスベガスなどは資本主義の堕落の運命を象徴するものだったかもしれませんね。


 ちなみに本エントリーの冒頭に引用した笠の「国民的な共感と合意」は「愛国心」の別様な表現となっていることもいたく興味深いことです