生存権をどう経済学的に基礎付けるのか?


svnseedsさんのエントリーに関連していると思うので旧稿の一部をここに。これはいま書いている福田徳三論に収録するんだけれども。要するに生存権を国民にすべて認めることを福田は経済的なコストから考えているわけです。翻っては、いま某誌に書評キボンを出している稲葉・立岩本の問題意識にもクロスしていくのかなあ、と思います。


 戦略的な不可知―生存権自然淘汰=清算主義的メカニズム―
(全文は『脱=「年金依存」社会』http://www.amazon.co.jp/gp/product/489434422X/に収録)


 福田徳三が穂積陳重の老人権を社会権とみなすという主張に賛成したのは、彼の生存権に対する考えに基づくものであった。福田の生存権は「ナショナルミニマム」と意味するところはほぼ同じであったが、その思想的な背景はウェッブ夫妻やマーシャル、ピグーらのイギリス社会政策学派や厚生経済学の影響を受けながらも、基本的な部分でよりドイツ的な法思想を背景にしていたともいえる。福田はアントン・メンガーの『労働全収権』の議論を敷衍して、メンガーの理論を彼独自の視点から再構成し、生存権を社会政策が保証すべき最も重要な社会権であるとみなした。この抽出作業の過程において、ウェッブやマーシャル、ピグーらの影響も強く刻印されたのである。


 福田によればメンガーは、「人類社会の根本権利」として、労働全収権、労働権、生存権の三権を考えた。労働全収権とは「労働の実行者は労働の成果を全部取得すること」であり、労働権とは「労働能力ありまた労働心ありて、労働の機会を得ずまた見出し能わざるものが、その欲する労働の機会を要求すべきひとつの社会権なり」である。前者は労働者の能力に応じて完全にその成果が帰属するという「給付原則」の徹底化であり、また後者は就業機会確保の権利を主張する失業対策の徹底ともいえた。それに対して、生存権は経済的欲望に十分で合理的な充足を要求する権利として定義された。


 福田によれば、人間は経済的組織の中で、自らの経済的な欲望を充足するために、労働を行い労働の生産物を得る、そしてこの経済行動は、欲望―充足、労働―労働の生産物 、さらに(労働の生産物への)欲望―充足、……という循環的な構造をもつものとして考えられた。この循環的構造を支える柱は、欲望―充足、労働―労働の生産物という二局面である。しかし現代の私的所有権制度を前提にした経済(すなわち資本主義経済)では、これら二局面の適合関係がかならずしも適切に機能していない、と福田は考えた。


 福田はアントン・メンガーの所論を彼流に援用して、「現存の財産権は一に伝来の権力関係を結晶したるものにして、ただその保全と擁護とのみ全力を傾注するものなり。されば、欲望とその充足との関係、労働者とその産物との関係について、なんらの理想を認めることなく、なんらの主義を持することなし」として、そもそもローマ法以来の西洋の法規範には私的財産権は「先占」exploitationの結果であるという伝統がしっかりと根付いていた、と福田は指摘している。この先占から外れた権力的弱者は、欲望を十分に満たすことができないのでやがて自然淘汰されるというマルサスダーウィン的機構が働いてしまう。また現在の資本主義制度は企業経営者の「不労所得」ともいえる余剰価値(レント)の獲得を保証しているので、労働者は彼の成果をすべて得ることはできない。


 そしてこのような欲望―充足、労働―労働の生産物の不適応を正すために社会政策の積極的意義が見出される、と福田は考えた。福田のこのような発想の根源には、私的所有制度を基礎とする資本主義経済は権力関係の経済機構であり、またその強者が弱者よりも財産を先占するexploitateすることで発展する経済であるという価値判断があったことは指摘されるべきであろう。


 また労働権は、就業機会を要求する権利であった。雇用契約がそもそも雇用者側に有利なように締結せざるをえない、という権力関係上の非対称性や、すべての環境変化に対応していないという契約上の「瑕疵」によって、福田は失業が発生すると考えた。構造的な失業の一種である。そのためこの瑕疵を正すためには、労働協約の締結などの交渉力を政府が保証することが重要な失業対策ともなった。先の循環的な経済構造の捉えかたからいえばこの労働権は、欲望―充足、労働―労働の生産物という二つの局面を結びつける労働への参加を保証する権利ともいえよう。


 さて福田はこの生存権、労働全収権、労働権のうち生存権に社会政策の基礎たる資格を与えた。


 「労働権も労働全収権もともにひとつの過渡的産物たり、畢竟生存権たるべきMittel zum Zweck(目的のための手段)たり。両者ともに労働するもののみについての主張なり、労働せざるもの、労働し能わざるもの、労働を欲せざるものとは全然没交渉なり、したがった社会の全員を対象とする社会政策の根拠とならず、畢竟ひとつの階級主張たるに止まる。これに加うるに労働そのもの否労働の産物そのものは、決して人の目的たらず単に手段たり、労働の産物あり、その産物は全部労働するものの手に帰し、しかしてその帰したる産物はこれをもって生存維持にあつることを得るとの前提のもとに立てらる。人の要するところは生存なり、労働もその産物もこの生存を維持する手段に過ぎず、もし社会権が社会政策の基礎たるべきならばそれは生存権ならざるべからず」。


 福田に先駆する金井延、桑田熊蔵らが社会政策を労使関係の枠内でしか捉えられず、桑田などが養老年金を賃金代替的な発想でしか把握できなかったことに比べて、福田の発想はまさに「ナショナルミニマム」の先駆であった。福田はこうもいっている、「近来、シドニーウェッブ夫妻が唱導する「国民最低限の説」Principle of national minimumもまたその帰着を一にするものというべし」、「而して幼者と老者の其生存の権利は報酬の主義に基くにあらざること」。


 この生存権の認承を国家に要求する闘争として社会政策は現実的な意味をもった。生存権の具体的な表れとして養老年金制度が位置づけられていたことは前節(ここでは省略)で見たとおりである。その意味で、労働者が現役時に保険料を納付して、その積立で老後の生活を行うとした桑田熊蔵らの賃金代替的な発想は理念的には乗り越えられているといっていいだろう。


 他方で、この生存権が理論的にもまた現実的にも直面した最重要課題が、マルサスダーウィン的な自然淘汰の法則であった。
 福田はマルサスの人口法則を、(1)人口の幾何級数的増加と食料の算術級数的増加、(2)食料の増加は人口に対する需要の増加が原因、(3)西欧諸国は人口が食料に比して超過する可能性が高いので道徳的抑制で人口供給を調整する必要がある、という三つの観点からとらえた。このうち(1)については幾何級数的・算術級数的な数値シミュレーションはマルサスは適切ではなかったものの、食料の生産速度よりも人口増加の速度の方が上回っている。(2)についても肯定した。(3)については人口超過の傾向は西欧諸国にみられない、と否定的であった。福田のマルサス論で見逃せないのが、その(1)と(2)の論点から、彼がダーウィン的な自然淘汰説を導き出し、これを全面的に支持していることだろう。


「殊に人間は食料よりも増加の度が速かであつて、生まれる程の人間は皆必ずしも生き延びて行けるものではない、生まれるものの中何人から必ず死ぬ可き運命を持て居る、出生者の全部は生存を必する訳には行かぬと云ふ大事実は、人力を以て是を如何することも出来ない自然の大則であります。此事実は否定出来ません。否之が無ければ人類の進化は止まつて仕舞ひます。人間として生れた者の中、精神上肉体上優れた者が優勝者として生き延びます。此淘汰がなかつたならば、人類はいつ迄も同じ所に居るか、或は文明は跡戻りする外ありません。これは甚だ悲惨な事実でありまして、生れる所の生物としては生きる見込みがないのに生み出されるのは甚だ迷惑であります。此個体の為には不幸であります。乍併生物全体人類全体の為から申せば、それは即ち幸福を増す所以であります。淘汰せられる個人は人類全体の進化の為の犠牲たるのです」。


 優勝者と劣敗者を生み出す生存競争が人類の進化の必然である、という福田の確信は、また彼の資本主義経済観である権力の不均衡こそ経済発展を促すという視点と共鳴していた。


「権力関係を度外視して今日の流通社会は説き得ず。共産主義説は権力の行われしを認めるも不都合なるものとしせしなり。されど不均衡こそ流通をすすめる力なり。権力関係を始めから価値判断なりとして流通に入れ来りしはMarxの掠奪、余剰の絞り取りなりとす。されど彼は限られたる眼でそを見たり。広く人類発展の進行に表われたものとして歓迎すべし。文明をすすめし事実としてみざるべからず」_。


 もしこのような優勝劣敗を社会経済発展の原動力とするならば、弱者(幼児、老人、病疾者ら)を保護するような生存権に基づく社会政策はむしろ社会の発展を阻害するのではないか? というのが自然な問いであろう。


 福田自らもこの生存権マルサスダーウィン自然淘汰説との緊張関係を問題視し、両者をどう調和させるかが「現在に於ける経済学の最大任務たり社会政策の最重宿題たりとす」と明言している。この問いは論文「人口法則と生存権 マルサス対アーサー・ヤング」の中で集中的に議論された。その中で福田が採用した生存権の理論的な基礎づけは、ある意味非常に実践的で、また戦略的な考え方であった。


 この論文の中で、改めてマルサスを淘汰説に立脚する生存権否定論者として紹介し、彼の自然淘汰の法則は否定できないと明言している。その上で、福田は機会の平等と結果の平等の二方向から、自然淘汰法則と社会政策の位置関係を明白に定義している。


 まず機会の平等に関して、福田は次のように述べている。


 「即ち社会は自然淘汰に対し機会均等の主義を取らざる可からず。淘汰せらる可きものは必ず淘汰せらる可し、唯だ淘汰の作用を受くるに方りて自然が要求する淘汰要件以外のハンヂキャップの何人にも加はらざる事は社会は其任として保障する可あり」。


 福田にあっては、マルサスダーウィン自然淘汰法則が機能するのは、資本主義経済のあり方そのものである。市場による淘汰(強者が生き残り、弱者は淘汰されるという清算主義)が「権力の不均衡」を結果としてもたらし、そのことは他方で経済社会の発展の証でもあったのだ。福田のこのような清算主義的な発想は終生かわらなかったといっていい。そしてこのような自然淘汰=市場による清算機構がより機能するために機会の平等が必要とされたのである。福田が念頭においた機会の平等を是正する具体的な社会政策としては、労働協約の設定などがあった。


 ところでこのような自然淘汰=市場による清算主義的メカニズムは、結果としての不平等を許容するものである。生存権を淘汰されたり清算された人々に与えることは、経済や社会の発展からは原理的に好ましくない。


 「縦令生存権を社会が認むとするも淘汰せらる可き限りのものは早晩淘汰せらる可し」。


 では、福田の生存権の社会政策はどこに理論的基盤を与えることができるのだろうか?あるいは経済発展を犠牲にしてまでこの生存権を認める方向を打ち出すというよくある話で終わるのだろうか? ここで福田が生存権の基礎として提示してきたロジックは、「戦略的な不可知論」とでも名づけられるものであった。


 「社会に生まるる限りの者を悉く生存に維持することは、如何なる工夫を以てするも如何なる政策を以てするも到底為し能ふ所にあらざるや勿論なり。然れども社会中何れの特定人が何れの特定階級が淘汰の運命の下に立つかは人智を以て知り得る所にあらず(略)淘汰せらる可き特定者誰たるやの知り得ざるに自然の法則の儘に運行せしめ人事を尽くすことを為さずして唯天命之を待つ可しとすること能はず」。


 自然淘汰の法則と人間の営為の間には「厖大なる余地があり」、自然淘汰の傾向はわかるにせよ、それがいったい誰にどの階級に該当するかは人智を超えるものである。いいかえれば、自然淘汰の結果として淘汰されたり清算されたのではなく、たまたま遭遇した政府の政策の失敗が淘汰をもたらしたり、偶然の所産で淘汰されるはめに陥る人もあるだろう。そのような人や階級を放置するのは経済社会の発展においても好ましくないだろう。これが福田が生存権の社会政策に与えた理論的な基礎である。


 いわば、自然淘汰の法則性を認めつつも、その人智を超えた不可知性ゆえに生存権を社会の構成員全員に分配することが、与えられた条件では最善である、と福田は判断したのである。例えば自然淘汰の結果で敗者になったものに生存権を付与することは社会的に望ましくなないが、社会の構成員が自然淘汰の結果として勝者となったのか敗者になったのか、個々に調べる社会的コストは膨大なものであり、事実上不可能であろう。むしろ最も社会的コストが少ないのは生存権を構成員全員に認めておくことである。これが福田の生存権の社会政策の真意であったにちがいない。