優れた音楽産業論:津田大介・牧村憲一『未来型サバイバル音楽論』

 いま早稲田大学で経済学研究(文化の経済学)の講義を今年限定で行っている。前回は、ニコニコ生動画で津田大介さんの司会の番組に出たときの様子を講義で流した。ニコニコ生動画を講義で流すのはあまりないのかもしれない。自宅に帰ってTwitterをみたらその津田さんの新刊が評判のようである。立ち読みして驚いたのは、これはすぐれた産業論であり、サブカルチャーを経済的視点で扱った稀有な書だということだ。

 まず世界的な音楽産業を経済学的に扱う上で、よく知られたホットイシューがある。文化経済学学会の会長Ruth Toeseが講演でいうように、文化経済学は長年、著作権の問題を正面きって扱ってなかったという。本書でもこの著作権について非常に見通しのいい展望が語られていて、今後、日本の音楽産業を経済的、文化的な側面から考察する際のよき指標になるだろう。

 これも文化の経済学やコンテンツ産業論などでは早くから注目されてきたのが、CDの売上低迷、デジタル配信の緩やかな成長と質的変容、そしてライブでの収益や副次的なプロダクツの売上への依存である。津田さんたちの本では日本ではゼロ年代になってから加速したらしいが、米国などでは90年代から先駆してみられてきた。実際に90年代からのコンサートの単価は上昇トレンドにある。

 日本もこの世界的な流れにゼロ年代から加速度的に傾斜してきたといえる。CDの売上減少については一時期、デジタル情報としての私的コピーが問題になったが、実証的には否定的な結論もある。むしろCDの販売減少の可能性としては、1)音楽配信チャンネルの多様化が貢献。2)若年人口の減少、3)代替的なレジャーとの競争 などが提起されてきた。津田さんたちの本では特に1)に焦点をあてているといえる。

 第1章は津田さんと牧村氏との音楽産業の上述した論点を含めての現時点の俯瞰である。特にインターネットのチャンネル(TwitterUstreamなど)の利用、まつきあゆむ氏のネットを利用したミュージシャンの直販システムの可能性などが語られている。この対談の中でいま音楽業界では「中抜きの議論」が盛んだという。ミュージシャンが消費者に直販できれば、レコード会社などは不用になるというラディカルな意見だ。これなどはかってITバブルのときに流行したニューエコノミー論を思い出す。そのときは流通過程で取次や商社がなくなるという話だが、結局それは起きなかった。この問題はまた別に論じる必要があるだろう。津田さんと牧村氏はここで「ニューミドルマン」の可能性を提起している。それは簡単にいうと、情報を集約・選別・評価し、さらに加工するという知のプロデューサーともいうべき役割を期待しているようである。これは先の「中抜きが生じなかった」という事例を考えるときにも示唆的だ。

 第二章は牧村氏の日本におけるレーベルの歴史の簡潔な解説である。レーベルというのは一種のブランドであり、音楽業界のように独占的競争が支配している中では、ブランドやそれを利用した広告が、消費者にとっても望ましい発展を生むことに寄与してきたのではないか、と牧村氏のまとめを読めると思う。

 第三章はまた両者の対談に戻る。前述したようにゼロ年代に入って急速にCDの売上は減少し、そして90年代に誕生した「Jポップ産業複合体」は崩壊した。音楽市場の変容は、ライブ市場中心、中でも物販や、コアなファンへの直販などを中心に構成されていく。このような「音楽ビジネス」の変化が語られている。ちなみに僕も12月に出す『AKB48の経済学』でもこの問題について触れている(というか本書に魅かれたのはまさに僕の近刊とテーマがかなりかぶるからだ)。

 ここで津田氏は以下のように「未来型レーベル」、本書の題名に即せば「未来型サバイバル」を提示している。1)インターネットなどでアーチィストとファンのコミュニケーションを販売すること、2)アーチィストの生み出す「キャラクター」や「ストーリー」をどう「消費」してもらうか、のこの二点であるという。

 これは僕もすでにシノドスメールマガジンなどで書いたこともあるが、まさに「こころの消費」「小さなこころの消費のネットワークづくり」そのものである。この考え方の基本的な着想は、ノーベル経済学賞を受賞したトマス・シェリングにある。

 第4章は著作権をめぐる議論である。津田氏の私的コピーの問題、CDの売上急減、DVD市場の成熟、さらにSNSの利用などゼロ年代前半の話題がまずまとめられていてわかりやすい。音楽著作権についてもそもそもそれがどのように誕生したのか、そしてそれがどのようなプロトタイプとして考えられるのか、図解も利用して実にわかりやすい。
 
 ここでは津田さんは多様な側面から音楽関係企業における著作権戦略の在り方とその変容をみながら、今後の著作権については、新しい最適な解を見出す方向として次のように書いている。

「もちろん、いまだレコード会社による旧来の手法でしか育てることができないアーチィストや作品があることは事実です。しかし、デジタル技術とネットワークの進化は確実に音楽業界において「自立」を目指すアーティストの数を増やしています。だからこそ、音楽著作権は旧来の『業界」を守るだけに存在するのではなく…(略)…著作権保有する側が効率よく作品を世の中に広めるためには、排他的利用権を必要以上に行使せず、戦略的に敢えてゆるく運用する。これが有益な結果をもたらすこともあるのです」

 この意見には賛成だ。もう少し進んで積極的にフリーコピーの利益を謳ってもいいのかもしれない。なぜなら本書でお二人が語っている過去の音楽産業の発展はむしろフリーコピーの進化によって促されたのではないだろうか? そのような指摘も経済学者たちの一部は行っている。

 第5章はまた対談に戻り、いままでの復習をかねて、CDの売上低下やフェスブームについて議論を重ねている。それを読んでの僕の感想は、やはり人はリアルなつながりを求めていることだ。それが音楽であれ、なんであれ。それが商売になり、多くの才能ある人たちの飛躍につながるならばそれはなおさら素晴らしいだろう。

 本書は、文化やコンテンツに関心のある人、僕のような経済問題に興味のある人にすすめる未来型のサブカルチャー経済論だ。

本書と合わせて読むといい経済書。
コンテンツ産業論―混淆と伝播の日本型モデル

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シェリングについては以下のコウェンの本がいまのネットを通じた「こころの消費」を描いていて興味深い。
Create Your Own Economy: The Path to Prosperity in a Disordered World

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若田部昌澄「危機の経済政策ー湛山ならばどう立ち向かうか」

 これは『週刊東洋経済』の論説とは異なり、経済倶楽部講演録に収録された石橋湛山賞受賞をうけての講演です。これはとても深い内容の湛山論でして、『経済倶楽部講演録』(2010年11月)が一般で入手が難しいだけに少し残念です。なお経済倶楽部自体は東洋経済新報社内にありますし、この講演録も525円(税込)と定価がついてはいます。

 この講演のエッセンスはもちろん『週刊東洋経済』の論説のなかに凝縮されてはいるのですが、次のように石橋湛山が経済危機がどのように政治を変化させていくかに注意を促した箇所がありますので引用します。

「その大恐慌・昭和恐慌が続く中、1931年9月に満州事変が勃発しますが、石橋は「経済危機が政治を変えていく」ことについて非常に憂慮していました。満州事変から日支紛争(日中戦争)に発展していく時に書いた社説「果たして帝国主義戦争か」(933年3月4日号『全集』9巻)では、共産主義者はこれこそレーニンがいう帝国主義戦争だと言うが、そうではない。軍部が大財閥や権力者への反感を利用して起こした反資本主義的運動であって国内改造をするための道具として満州事変を使っているのだ、とするわけです。そのうえで、「此事件は、単に(国際)連盟を脱退し、熱河(満州に編入された熱河省)を討伐し、満州国を建設する等のことで終わるものではなはいことは明らかだ。真の問題は、斯様な国外のことにあるのではなくして、国内に存するのである」(同)と言い切るわけです。このように、経済の危機が及ぼす政治的影響力ということについても、石橋は非常に敏感でした」

 つまり国内の問題はデフレ不況にあった。それを考えることもせずに、海外に責任をかぶせ、その国際問題を利用して、日本の社会改造を試みるという、二重にも誤った政策方針を採用していき、泥沼に陥ったのが戦前である。

 いまでもこの湛山の示唆は重要だろう。多くの他国との外交問題、紛争などはほとんどが実は自国の問題の反映でしかない。いまでもグローバル化や海外要因の不況、ポスト資本主義の進展などに、いまの日本経済の苦境をもとめる論者がいる。しかしそれの多くが間違いであると僕は思う(その理由は、多くの本に書いたので省略)。おそらく若田部さんも同じであるし、また湛山も生きていれば同じことを言明したであろう。

 石橋湛山は日本で最高の経済学者であることは、いまの経済・社会を考える上でも重要な視座を提供していることからも自明であるように僕は思える。

石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)

石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)

ニコラ・ド・クレシー『氷河期ールーヴル美術館BDプロジェクト』

 久しぶりのフランスマンガ(BD)の翻訳の登場ですね。 ニコラ・ド・クレシーの作品は『天空のビバンドム』が出ていますが、それと同時期に同じ作者の作品が翻訳されたということは、フランスのマンガの知名度の向上にも役立つでしょう。そのほかにもメビウスの『アンカル』やいくつかの注目すべき作品が刊行されると聞いていますので、これから出版に関してはちょっとしたフランスマンガブームが来ると思われます。

 作品自体はとても風変わりなテイスト、幻想とSF的要素、人類の文明そのものへの皮肉やユーモアなどが、美しいビジュアルの中で展開されていきます。このルーブル美術館BDプロジェクトには、日本のマンガ家も参加していて、このブログでも以前とりあげた荒木飛呂彦氏の作品がすでに刊行されています。

氷河期 ―ルーヴル美術館BDプロジェクト― (ShoPro Books)

氷河期 ―ルーヴル美術館BDプロジェクト― (ShoPro Books)

石橋湛山の外交戦略by姜 克實

 姜 克實先生は尊敬している思想史研究者です。特に石橋湛山研究では毎回示唆を得ることが大きいのです。今回の『週刊東洋経済』の論説「紛糾する対中関係どう構築し直すか」も勉強になります。

 尖閣諸島問題で最大の問題は、それが「国民感情の対立、ナショナリズム合戦に拡大したこと」と姜 克實先生は指摘します。そして湛山が生きていれば、1)国民にナショナリズムの自粛を呼びかけ、2)相手の懐に飛び込んで誠意を持って誤解の解消に努める、3)国際社会の正常運営のため、まず自国の欲望を抑制する、などを主張すると述べています。おそらくそうでしょおう。

 ナショナリズムは自国本位の教育の産物であり、国境・民族が存在するときにこれを教育で抑制するのは不可能だろう。となると国際間のナショナリズムの対立を避け、できるだけ外交問題は外交の場で解決し、国民の感情に任せないことである、と姜 克實先生は指摘しています。

 しかし問題の核心は、国民感情を刺激することを外交カードや人気取りに利用している政治屋が存在していることが問題の核心であると。

 「感情対立の発生は、政治家の不謹慎の結果であり、失政の象徴である」と姜 克實先生は手厳しいです。

  湛山の国際関係の閉塞打破への提言はこうでした。
 「疑心暗鬼の多くが誤解に基づくもので、その原因を、互いに相手を正しく理解できず、また互いに誤解さええるようにしていると指摘した。前者に対しては謙虚な低姿勢を要請し、後者に対してはなんでも相手の気に入るようなご機嫌とりの「迎合」姿勢を戒めた」。

 小国主義は、国家を前提にしている点ではナショナリズムでしょう。姜 克實先生は指摘されているように、小国主義は、自国の欲望の統制、規制と国際社会への協調の特徴によって、また経済合理性にも支えられていました。

 他方で、東アジア共同体論を姜 克實先生は手厳しく批判しています。この点も僕は賛同します。この東アジア共同体論のベースには、「戦略的」構想が伏在し、地域覇権の思想と無縁ではないと思います。そのような地域覇権を湛山は批判していました。

 これは先日、河上肇賞の選考会でお会いした川勝静岡県知事が話された言葉ですが、「戦略的互恵関係ではなく、友好的互恵関係が大切である」ということにもつながるでしょう。川勝氏は10月に中国側が望まないというメッセージを発したのにもかかわらず、訪中したところ、大変な歓待をうけたそうです。

 中国の訪中拒否のメッセージを拒否し(湛山の「不迎合」)、訪中して互いに膝を交えて話す(湛山の「膝を付き合わせる」と同じ)。この姿勢はたしかに大切です。

 川勝知事、いや川勝先生の放言には慣れていましたが(笑 なるほど湛山の血が生きている、早稲田の伝統ぽいものはあるのかもしれない(なくてもいいのですが 笑)。それを活かすのがいまだ、と思いました。