不況のときに育つと努力より運を信じるようになる?

 すでに内外ともに話題になっているのが以下の論文

 Growing Up in a Recession: Beliefs and the Macroeconomy
 http://ftp.iza.org/dp4365.pdf

 要約しかみてないけど、不況期に若い時代をすごした人は、好況期にそうであった人よりも、人生の成功が努力よりも運によると信じ、政府の再分配を頼みにし、さらにあんまり社会制度を信頼しない、ということだそうです。しかもこの不況のメンタルに与えた影響はかなり継続するとのこと。

ドクガの餌食になる

 よく「悪い蟲がつく」とか「ドクガの餌食になる」ともいいますが。昨日から利き腕が痒くて痒くて、しかも湿疹もひどくなり病院にいきましたが、この季節特有の蛾の幼虫、つまり毛虫に刺されたみたいです。ようやくクスリをぬってかゆみもやわらぎましたが、人間、こんなかゆみで集中力が落ちるというのもなんか物悲しいですねえ。ちなみに上の「ドクガ」は茶毒蛾ではないと思いますので、かしこい方は辞書をよくご確認くださいw。

一味も何味も違う

 金子さんのブログ

 http://blog.guts-kaneko.com/2009/09/post_472.php

 個人的には「失業率の悪化をとめる」とか「日本銀行法の改正」とかでもいいんじゃないかなと思います。貨幣的な現象(デフレとインフレ)はウケのいい悪いではなく、まず物価が「お金の価値」のことでもある、ということを正確に知っていないとユニクロを批判するみたいなことになるので、経済の関心が大きい人たちでもなかなかイメージが伝わりにくいかと思います。その点で「失業率の悪化をとめる」とか、日本銀行法を改正して雇用の安定を課す、というのであれば直感的にも理解しやすいように思えます。でも個人的には「まずデフレをとめよ」」がナイスなんですが 笑。

 あとキャッチフレーズではないですが、日本銀行の職員の天下り先の公表をせまるなどちょっといろんな(ここでは手の内明かすこともないのですが 笑)裏ワザを交えるのが今後の対日本銀行政策には有効です。

ケネス・ガルブレイス『アメリカの資本主義』と『大暴落1929』

 福田徳三研究の落ち葉拾い。山田雄三(福田の弟子、城山三郎とかの先生)が福田理論をガルブレイスの「拮抗力」countervailing powerと類似していると指摘したので、その拮抗力理論が展開されてるガルブレイスの『アメリカの資本主義』を図書館から借りて読む。拮抗力というのは、大企業が独占力をつよめていくと、市場がその独占力を弱める効果が次第に減少していく。と同時にこの企業の独占力に対抗して、消費者団体や労働組合などの集団的な権力組織が勃興してくる。これをガルブレイスは拮抗力と名付けた。

 拮抗力は、不況のもとでは強まり、他方で好況期では弱まる、とされている。例えばこのガルブレイス的な拮抗力をもじってみると、停滞期で大企業が規模が大きすぎて救済するしかないと政府が介入すれば、これに「拮抗」する形で、組織労働者を保全せよ、という圧力も増していく、あるいは未組織労働者の組織化も進む、という経験的にはありうるような見かたをガルブレイスは提起しているともいえようか。

 僕が参考にした著作集には最近復刊された『大恐慌1929』(『大暴落1929』として復刊)も同時に収録されているのだが、大恐慌の原因が悪しき企業と銀行組織の腐敗、適切な財政金融政策の放棄=清算主義、所得の悪分配(一部の富裕層への極端な高所得)、そして投機熱の崩壊が重なって恐慌を深いものにしたと書かれている。ここで拮抗力を持ち出せば、ニューディール政策による(チェーンストアなどのような)企業の寡占化の進展と労働組合の法的保護の進展というものとして理解されるのだろう。ガルブレイスの理論と、他にオルソンの集合財の理論や『セイヴィング・キャピタリズム」の議論と照らし合わせると面白い分析ができるかもしれない。

大暴落1929 (日経BPクラシックス)

大暴落1929 (日経BPクラシックス)

バートランド・ラッセル『怠惰への讃歌』

 先日、『ベーシックインカム入門』のエントリーで紹介したラッセルの『怠惰への讃歌』がタイミングよく文庫版で復刊。巻末には塩野谷祐一先生の濃い内容の解説文あり。ラッセルの主張は過剰生産が存在するのは、人間が生きるに必要以上の生産をするためであり、むしろ労働時間を短縮して一日四時間労働をしたほうが、労働自体も喜びに化し、また残りの時間を創造的な活動に利用できる、ということを書いています。

 塩野谷先生はこのラッセルの主張をケインズの「われわれの孫たちの経済的可能性」の議論と並行していると指摘しています。このような労働時間の短縮、裏面での構造的な過剰生産(それをささえる仮の需要としてのバブルだとか財政需要だとか)の議論は、孫たちの世代どころか、目前の危機にも応用する人は多いですね。理想的な社会状況を、無理に現実に適用してしまう、というのはかなりおかしな議論なのですが、例えば水野和夫氏の『金融大崩壊』などは最近読んだその種の事実上の長期停滞論の応用です。

 ラッセルもこの四時間労働を現今の問題として提起しているので、その種の構造的な不況論と軌を一にしていると思われます。翻って塩野谷先生がそのラッセルについて好意的に評価するのもそのような構造的な不況論が背景にあるのでしょう(参照:塩野谷祐一『現代の物価』)。僕はそのような構造的な長期停滞論は、単に事実認識の誤りである、と思っています。金融資産への投資をすべて偽物の需要とでもみなす(=バブルなど)とか、人々の期待インフレや期待成長率がプラスである事実を過小評価するとか、あるいは発展途上国の投資機会を無視するとか、技術進歩の現在の成果や将来の可能性を大幅に割り引くなど、そういう一連の判断を無理やり下さないかぎり、ラッセルらの議論は妥当しないでしょう。

 ただこの種のラッセルの議論をひとつの典型として読むのは興味深いことです。

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)