バートランド・ラッセル『怠惰への讃歌』

 先日、『ベーシックインカム入門』のエントリーで紹介したラッセルの『怠惰への讃歌』がタイミングよく文庫版で復刊。巻末には塩野谷祐一先生の濃い内容の解説文あり。ラッセルの主張は過剰生産が存在するのは、人間が生きるに必要以上の生産をするためであり、むしろ労働時間を短縮して一日四時間労働をしたほうが、労働自体も喜びに化し、また残りの時間を創造的な活動に利用できる、ということを書いています。

 塩野谷先生はこのラッセルの主張をケインズの「われわれの孫たちの経済的可能性」の議論と並行していると指摘しています。このような労働時間の短縮、裏面での構造的な過剰生産(それをささえる仮の需要としてのバブルだとか財政需要だとか)の議論は、孫たちの世代どころか、目前の危機にも応用する人は多いですね。理想的な社会状況を、無理に現実に適用してしまう、というのはかなりおかしな議論なのですが、例えば水野和夫氏の『金融大崩壊』などは最近読んだその種の事実上の長期停滞論の応用です。

 ラッセルもこの四時間労働を現今の問題として提起しているので、その種の構造的な不況論と軌を一にしていると思われます。翻って塩野谷先生がそのラッセルについて好意的に評価するのもそのような構造的な不況論が背景にあるのでしょう(参照:塩野谷祐一『現代の物価』)。僕はそのような構造的な長期停滞論は、単に事実認識の誤りである、と思っています。金融資産への投資をすべて偽物の需要とでもみなす(=バブルなど)とか、人々の期待インフレや期待成長率がプラスである事実を過小評価するとか、あるいは発展途上国の投資機会を無視するとか、技術進歩の現在の成果や将来の可能性を大幅に割り引くなど、そういう一連の判断を無理やり下さないかぎり、ラッセルらの議論は妥当しないでしょう。

 ただこの種のラッセルの議論をひとつの典型として読むのは興味深いことです。

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)