ただのネタ:イタコに呼び出してほしい経済学者

 週末なので最後は脱力ネタで。

http://ranking.goo.ne.jp/ranking/999/resuscitation_person/
経由


5位 カンティロン‥‥本当に死んだのか聞いてみたいw

4位 ジョーン・ロビンソン‥‥いまは経済学の何番目の危機か聞いてみたい

3位 ケインズ‥‥小野理論はケインズ理論ですか? とマニアックな質問をしてみたい

2位 フィッシャー・ブラック‥‥ノーベル経済学賞をあげたい

1位 フリードマン、スティグラーとナイト‥‥「破門」事件の真相を聞いてみたい。
   参照:http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20061125#p2


 参考)カンティロンについては、若田部さんのこの論説を参照のこと。

大森義明『労働経済学』


 最新の労働経済学のスタンダード教科書。英語が読めるならば、ちょうどBorjasのテキストと並行して読めると思う。いままで労働経済学といえば(僕には)大竹文雄さんのテキスト『労働経済学入門』が定番だったが、それと並んで読まれていくと思われます。若干の数式がでてくるけれどもそんなに難しくはない。大学院を志望する学生と輪読予定。


労働経済学

労働経済学

Labor Economics

Labor Economics

日銀新総裁はゼロ金利に復帰を:若田部昌澄


 献本いただいた(謝謝)『Voice』最新号にも掲載されていますが、若田部さんの論説がネットでも読めます。

http://news.goo.ne.jp/article/php/politics/php-20080411-01.html


 :ところで、「デフレが続いているにもかかわらず2002年からは景気が回復した、だからデフレは景気とは関係がない」という議論がある。まず、日本がデフレに陥っていた1990年代にも2回程度の景気回復があったことを忘れてはならない。そのたびに景気回復が頓挫した原因には、もちろん2000年8月の速水優日銀総裁によるゼロ金利解除といった政策の失敗もある。しかし、デフレの下での景気回復はきわめて脆弱である。現在の景気回復はほとんど枕詞のように「実感なき」と呼ばれるほど勢いが弱い。デフレの下では給料などの名目値が伸び悩むから実感に乏しいのも不思議ではない。


ところで、「バブル崩壊後の低金利による金利収入の逸失分が300兆円余り」という話を聞いた人は多いかと思う。そこから「金利を上げると利子収入が増えて景気が上向く」という珍妙な「論理」を展開する人もいる。この数字は2006年2月23日、参議院財政金融委員会で当時の日銀理事白川方明氏(現日銀副総裁)が答弁するなかで出てきた試算である。当時日銀は量的緩和の解除、そして金利の「正常化」を控えていた。そのための「地ならし」の意味もあったのだろう。ただし、この数字は日銀にとって両刃の剣である。これを強調すると日銀は自らの政策を批判することになるからである。


 日本銀行の「使命」に忠実で非常にきまじめな白川総裁のキャラがよくわかるエピソードですね。ちなみに日本銀行財務省の官僚体質とそれへの政治の依存がもたらす弊害については、『Voice』巻頭の竹中平蔵氏の論説が明瞭です。

資源価格の高騰で、日本でもインフレが到来することを懸念する向きもあるかもしれない。個別の価格が上昇すると人びとは支出を手控える傾向があるから、すぐにインフレになるとはかぎらない。しかし、仮にインフレを懸念するならば、それを制御する格好の手段がある。それはインフレ目標にほかならない。サブプライムローンに端を発する金融危機は、いよいよ正念場を迎えつつある。アメリカ経済の本格的な景気後退はもはや仮定の問題ではない。日本の場合、サブプライムローンの問題は影響が少ないはずなのに景気後退懸念が大きい。この危機にあって中央銀行の責任は重い。

山形浩生&守岡桜『数学で犯罪を解決する』(キース・デブリン&ゲーリー・ローデン)


 献本いただく、どうもありがとうございます。

 しかしこの本はすごいよ。

数学で犯罪を解決する

数学で犯罪を解決する

 アメリカのテレビドラマを枕にして、数学理論(本書を読めば厨房でもわかるレベルに読み下しているので数学が不得手な人も安心して読める。だってもともとが犯罪物のドラマだから、わかりやすさが信条)の肝が、犯罪という応用例の中で鮮やかに解説され、しかも面白い。まだ最初の3章しか読んでないけれども、これ以上読むとあと半月で次の新作をあげなければいけないので差し支えが‥‥笑。


 山形翻訳ワールドの関連でいえば、前者がデーターマイニング関連で、そして後者が「テレビを見ると頭が悪くなる」テーゼへの反論としてあるように思われる。


その数学が戦略を決める

その数学が戦略を決める


ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている

ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている

トマス・シェリング『紛争の戦略』


 ノーベル経済学賞受賞者の代表的な著作ついに待望の翻訳。

 シェリングについての短文二篇

ノーベル経済学賞Dr.Strangelove

 『2001年宇宙の旅』や『時計じかけのオレンジ』などの名作でしられるスタンリー・キューブリック監督に『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を・愛する・ようになったか』という作品がある。邦題の『博士の異常な愛情』は原題ではDr.Strangeloveとなっていて、これは映画の中に登場する元ナチスの科学者の名前である。アメリカ戦略空軍基地の司令官が部下に核兵器ソ連を先制攻撃しろ、という指令を出してしまうことから物語は展開する。これを知ったアメリカ政府はなんとかこの暴挙を止めようとするが、複雑な統制システムが裏目に出てしまい、ついにソ連核兵器基地に水爆が投下される。ソ連側はアメリカ側に攻撃の意図がなく偶発の事故であることは認めているにもかかわらず、北極にある最終兵器(人類すべてを皆殺しにする報復兵器)が自動的に作動してしまう。

 名優ピーター・セラーズ演じるストレンジラブ博士は、アメリカ国防総省の地下にある会議室で大統領や政府高官、将軍たちを前にこの人類絶滅の危機を前にして狂気にみちた熱弁をふるうのである。「地下1000メートルに選ばれた人間が100年過ごせば地上に出られます。男性1に対して女性10を交配し、人類の伝統と未来を守るのです」。そして車椅子から立ち上がると、ストレンジラブ博士は“ハイル・ヒットラー”の姿勢をとりながら「総統! 歩けます」と叫ぶのである。映画はこの後、ヴェラ・リンの「また会いましょう」という優雅な歌声とともに、水爆による無数のキノコ雲の実写を流しながら終えるというまことにブラックな作品に仕上がっている。この映画の公開年はいまからちょうど40年前の1965年であり、その前後には米ソの核による人類最終戦争を描いた多くの映画作品が現れている。『渚にて』(1959年)、『未知への飛行』(1964年)、『駆逐艦ベッドフォード作戦』(1965年)、そして日本の円谷英二特撮による『世界大戦争』(1961年)などが代表的なものとして知られている。

 ちょうどこれらの米ソ冷戦やキューバ危機の悪夢を背景にした映画が続出したころ、今年度のノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリングやロバート・オーマンらのゲーム理論の業績が登場した。特にストレジラブ博士と縁が深い業績が、シェリングの東西冷戦分析であろう。相手側の先制攻撃に対しては、自動的に核攻撃を行うシステムを構築することが抑止に有効であることをシェリングは証明した。一方の先制攻撃は互いの共倒れになるために、先制攻撃自体が抑制されるというわけである。これはストレンジラブ博士たちが直面した状況と同じであるのだが、シェリングの理論との重要な差異は事前のコミットメント(ゲームのプレイヤーがプレイの前に採用する戦略を明らかにし、確実にその行動を将来行うことをアナウンスすること)がストレンジラブ博士たちには欠けていたことである。ソ連の開発した自動報復最終兵器や、ストレンジラブ博士が開発中であった同種のシステムもともに相手方に十分知られていなかった。このようにコミットメントが不在の冷戦ゲームでは、ひょっとしたらキューブリックの映画のような事態があったかもしれない。しかし現実にはキューバ危機の反省から米ソはホットラインを開設し、また互いに報復システムへのコミットを明瞭にするなどの抑止策を徹底した。ところでブログ 「限界革命」によると、シェリングは『博士の異常な愛情』についてキューブリックに助言していたらしい。経済学と芸術の見事な共演を、公開40周年を迎えるこの映画を楽しみながら実感したい。

●Focal Point


シェリングの『紛争の戦略』の貢献で他に名高いのはFocal Pointの議論。以下はすこし前にこのブログで、ロバート・サグデンの論文に触れたときに書いたものを修正再録。

1991年にロバート・サグデンという人が『エコノミック・ジャーナル』に合理性をめぐる展望論文を書いていて、このサグデンの論文では、ベイジアン合理性では解決できない自滅問題を別の合理性概念を前提にすれば解けることが直観的に説明されています。


 同論文ではまずベイジアン合理性(この言葉自体はサグデンの論文には出てこないので、期待効用仮説と基本的に同じなので以下ことわりないかぎり期待効用仮説といいかえる)の基本的な3つの仮定を「合理性の共有知識」と命名しています。

 1 ゲームの数的表現は共有知識である

 2 各プレイヤーは期待効用仮説の意味において合理的であり、相手方の選ぶ戦略をサベッジ的な意味での「出来事」として取扱い、このことが共有知識となっている。

 3 ゲームに関する証明可能な論理的・数学的定理は共有知識である

ところがこのような仮定に基づく合理性は実に単純な問題も解決できない。例えばトーマス・シェリングが60年に持ち出した「細道ゲーム」を解けない。これは二台の車がやっと通れる道をいま二台の車が走ってきても上記の「合理性の共有知識」を維持しているかぎり二台の車は道を通ることができない。


 二台とも左か右を選べばプラスの値の効用をえられるが、たがいに違い方向を選ぶと効用はゼロ。事前交渉をみとめて両者は合意を交わすことは可能だとする。


 しかしこの状況でも両者が「合理性の共有知識」をみたす行為功利主義者(期待効用を最大化できるならば、事前の合意を反故することもいとわない人)であるならば、車は道を通れない。


 なぜならいま田中くんと池田くんがそれぞれ車に乗っていて、事前に「俺たちは左におたがいいこうぜ」と合意していたとしても、両者が上記の意味での行為功利主義者だとするならば、両者ともに道を通るという簡単な協調ゲームができない。田中の車は左にいくという約束をしたから左にいくのではない、なぜなら行為功利主義者なので期待効用を最大化するほうにいくだけである。このとき田中の期待効用最大化は、池田の車がどう動くかに依存する。池田が左に動くと予測されるならば、田中も左に動くべきである。しかし田中は池田が行為功利主義者なのを知っている。池田が事前の合意を守る理由はいささかもない。池田はこのとき田中の行為予測に依存して期待効用を最大化する、しかし田中もまた池田の行為を予測し……と無限後退に落ち込む。


 このときにシェリングはFocal Pointという考えを提起した。田中も池田も共通の信念として左にいくと信じている、というわけである。例えばいまから田中は池袋の本屋にいくのでそこで会おうとだけいっても、勘のいい読者はジュンク堂の地下1階のマンガ売り場にいることを選ぶだろう。


 しかしこの左にいくことがFocal Pointだとしても、それが左にいくべきであるという結論には必ずしも直結しない。だが、「合理性の共有知識」を少しだけ緩めるとこの左にいくという行為が“合理的”となる。つまり彼らが人間は左を必ず選ぶという不合理なことを行う(=完全に合理的であるという共有知識を採用しない)ことを共有知識として保持しているがゆえに合理的なプレイヤー(田中、池田)は協調して道を通ることに成功するのである*1。


 このように「合理性の共有知識」の仮定を緩めることが道の通過という実に単純な協調ゲームを解くことに役だつのである。これをサグデンは合理性の拡張としてとらえているようである。他にも自滅型ゲームの説明があるが今日はこんなところ。ところで合理性については他に本棚に例のノージックの本があった。これもそのうち興味でたら呼読んでみようかな。

阿部重夫FACTA編集長の白川方明『現代の金融政策』書評


 するどい読み。白川氏の本の読解としては最も本質を突いたものに現行ではなっているでしょう。


日銀新総裁・白川方明氏の新著を真剣に書評する
http://facta.co.jp/blog/archives/20080409000651.html

量的緩和が奏功して「デフレ・スパイラルは生じなかった」という結論は是としても、では、デフレから日本は脱却できていたのか、という本質的かつ喫緊の問いに本書は解を与えていない。上方バイアスなど「デフレの糊代」を否定し、物価上昇率0〜2%の下限を目標としたかに見える福井日銀のレールを、白川氏も踏襲するのだろうか。

答えは本文でなく、巻末の引用文献にある。伊藤教授ら日本のターゲット論者の主要論文はほとんど挙げられていない。海外の文献はバーナンキFRB議長やウッドフォードらターゲット論者のものまで満遍なく網羅されているが、辛らつに日銀を批判したプリンストン大学のラース・スヴェンソン教授の「フールプルーフ(阿呆でも分かる)論文」(正式題名は「金融政策と日本の流動性の罠」)がなぜかない。

不在の影によって輪郭が浮かびあがるようでは、本書は「日銀のための日銀による日銀の教科書」と思われてしまう。「通貨の番人」の城砦に籠らず、ポレミークの野戦に打って出る自律性あればこそ、真に独立した中央銀行ではないか。: