『みんなのための資本論』の経済学(by田中秀臣)

『電気と工事』2016年8月号に掲載されたものの草稿です。前後編になっていて、後編は現在発売中の9月号に掲載されています。また草稿ですので実際に掲載されたものとは細部で異なります。

 経済問題を映画を通して理解する。映画は視覚に訴えるために、その内容も印象に残りやすく、また多くの作品はより多くの観客を想定しているため、わかりやく工夫されている。難解な経済問題を理解するには、映画(またはテレビ番組でも同様)は恰好の手段といえるだろう。
 日本や世界経済の話題を理解するうえで、最近でも優れた映画が発表されている。特にここ数年ではノンフィクション作品で優れたものが多い。大相撲の八百長のメカニズムなど人間の行動動機を追った『ヤバい経済学』、アカデミー記録映画賞を受賞したリーマンショックに揺れる世界を描いた『インサイド・ジョブ』、辛口のドキュメンタリーを発表し続けるマイケル・ムーアの『キャピタリズム』『シッコ』など、日本公開されたものも多い。
 最近では、クリントン政権のときの労働長官であったロバート・B・ライシュの主張を基にし、彼を“狂言回し”的に出演させた『みんなのための資本論』(字幕監修:山形浩生、2015年日本公開)が面白い内容だった。
 個人的にはライシュのイメージは悪い。クリントン政権のときに力のあったローラ・タイソンら戦略貿易論・産業政策論者のグループという印象が強く、対日本での貿易交渉で経済的混乱を生み出した元凶だと思っていたからだ。簡単にいうと自由貿易体制というよりも政府介入で(保護貿易的手法も排さずに)貿易の“不整合”を正せるという発想である。
またライシュは今日でもそうだが、企業横断的な労働組合産業別労働組合)が交渉力を高めることが、経済のセーフティネットを構築する上で重要だという見解を抱いている。この点については、辻村江太郎が『日本の経済学者たち』(1984年、日本評論社)の中で、ライシュの労働組合観は、アメリカ型の協調寡占体制を前提にしているものとして批評している。
アメリカ型の協調寡占とは、ある産業にはごく少数の企業が生産を行っている(これを寡占という)。イメージ的には米国の自動車産業などの大量生産方式を採用している企業だ。これらの企業は大規模な工場やオートメーション化に投資を行っているが、一度景気が悪くなると「過剰生産」に陥りやすい。つまり需要減に対応してその大規模な固定投資を清算しずらいとライシュはいう(ライシュ『ネクストフロンティア』三笠書房、1983年)。
そのためライバル企業同士が、この業界の「過剰生産」に対応しようと、生産調整のための一種の“カルテル”を組むという。価格面ではあたかも各企業が一体になって独占的に価格を設定するだろう(プライス・リーダーの価格支配力が強い、という)。その企業をまたいで生産調整(裏面では雇用調整、例えば一時帰休などのレイオフ)を容易にするために企業横断型の労働組合の必然性が生まれるという。
他方で、ライシュはフォード自動車が20世紀の始めに採用したように、経済成長が安定化しているときは、企業横断型の労働組合は、協調的寡占にある企業に対して(市場の相場に比して)高めの賃金を実現しやすい。つまり組合と企業側が好不況に応じて貸し借りを行うようなものである。高い賃金は、労働者の生活水準の底上げになり、中間層を養う経済的基盤になる。中間層はその旺盛な消費によって経済成長の安定化を持続させるだろう。経済成長は協調型寡占とその裏面の企業横断型組合を維持し、それが高い賃金に至る、そしてまた消費に…と経済の「好循環」が生み出されるという認識をライシュは持っていた。
この「好循環」の図式は基本的に、ライシュのキャリアを通じて変化することがない。今回の『みんなのための資本論』の中でもこの「好循環」のエッセンスをいかに現代に再生するかに、彼の問題意識は集約されているといっていいだろう。
ところでこのようなライシュの基本的見取り図に対して、先の辻村江太郎は反論している。ちなみに以下の辻村の主張は日本経済が世界第二位で、経済的パフォーマンスが先進国の中でも良好であった1980年代前半のものであることに留意されたい。
辻村のライシュ批判は、ライシュの肯定的に語る米国の協調型寡占(と企業横断型労働組合)は生産性向上の点で、日本との競争に負けているだろう。80年代の米国の自動車産業や鉄鋼産業の苦境は、まさにこのライシュが「好循環」を生み出すという協調型寡占体制にこそ原因がある。なぜ日本の生産性が上か。
辻村は日本の産業が「競争的寡占」にあるという。寡占は先ほど説明したように産業に属する企業数がごく少数のケースである。この企業たちはお互いに厳しい競争状態にある。各企業は少しでも市場占有率を奪取しようと虎視眈々としている。例えば不況で「過剰生産」が生じても、個々の企業努力の優劣によって市場占有率が変化するととらえる。経営者だけではなく、企業ごとに形成された労働組合(企業別労働組合)もまたライバル企業に対して強い闘争心を持っている。各企業はお互いに労使一体となってライバル企業との競争にまい進するだろう。
「企業間競争は各社の従業員に運命共同体の意識を目覚めさせ、その意識を生産性向上努力に結集させていく。アメリカのように生産物市場が協調寡占で、プライス・リーダーがゆるぎない支配力を行使できるのであれば、本来的に生産性向上への圧力は働かないのである。従業員が企業間競争を意識しない場合は、結束する必要も感じないから、自分自身の利害だけ考えればよく、むしろ個人間競争の意識が強くなって、個人能力相互の補完性が阻害されることにもなる」(辻村前掲書、23頁)。
ここで興味深いことは、米国的協調寡占の方が、協調するがゆえにエゴイズムを生み出しやすいと指摘していることだ。ライシュは協調寡占と企業横断型労働組合が安定していた、戦後から1970年代真ん中までを「全員参加」で繁栄の果実を共有できた時代だとしている(ライシュ『余震 そして中間層がいなくなる』東洋経済新報社、2011年)。
ところが辻村はこの「好循環」の中にすでに個人間の競争を過度に刺激し、やがて他者よりもより多い成果を自分だけで独り占めするエゴイズム、強欲に至る社会分断の可能性を示唆している。これは面白い指摘だ。
ちなみに辻村もライシュと同じように貿易は国と国が勝敗を決める競争場だと思っていること、産業政策(政府による経済的誘導)を支持していることに留意しておきたい。
映画『みんなのための資本論』をめぐる話題は次号も続けて書いてみたい。

余震(アフターショック) そして中間層がいなくなる

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Aftershock(Inequality for All--Movie Tie-in Edition): The Next Economy and America's Future

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