宇沢弘文「ジョン・スチュアート・ミルと木村健康先生」と木村健康の愛国心論

宇沢弘文の最後の著作『宇沢弘文の経済学』(日本経済新聞社)に、「ジョン・スチュアート・ミル木村健康先生」という章があることを知って楽しみに読んでみた。なぜならちょうど講義で、ミルを講じる機会があり、さらに最近、厚生経済学の歴史を扱う中で木村健康に注目しているからだ。

 

ところがこの宇沢の書いた文章はあまり内容が豊富ではなく、単に彼の読書体験を書いたのと、米国滞在中にミルの原書をみつけた街の記憶を掘り下げているだけのものだった。木村やミルについて深い記述があるわけではない。宇沢にとってミルや木村がその自由主義の精神と行動とによってきわめて高く評価されているのがわかるだけである。

 

ただその街の記憶の掘り下げ方は、さすがに宇沢だけあって着眼点が面白い。その街に由来のあるロバート・スティーブンソン(『宝島』『ジキルとハイド』の著者)に話題がいつの間にか移り、この章はほぼスティーブンソンについての短文になっている。しかも話題はスティーブンソンが転地療養とその終焉の地であった南洋サモア諸島の当時の状況(英米独の管理)とそこでのサモアの人たちの状況を書いて終わっているところである。話がどんどんそれていくその速度が面白いともいえる。つまりは全体が余談の塊なのだ。

 

スティーブンソンはサモアの人々と独立運動に全力を尽くしたと宇沢は書いている。その事実がどの程度のものかいまはわからない。

 

木村健康河合栄治郎の門下生で、戦前の言論弾圧事件である「河合栄治郎事件」では、一貫して師を擁護し、また東大をそのために辞した。東大の学生寮自治についての戦時中の当局の干渉に抵抗するなど、その姿勢は抵抗する自由主義者というものだった。

 

戦後は東大経済学部の礎を築いたと評価されるが、他方でさまざまな一般誌に優れた時事的な論説を多く投稿した。その名文ぶりは、彼の『東大嵐の中の四十年』などによく表れている。

 

『現代随想全集』(昭和29年)というエッセイ・随筆の名手を集めた全集があったが、その中で木村が選ばれている。この集の企画の特徴は、弟子にあたる人物に解説を書かせ、また本人に自分の年表を書かせていること、さらに随筆の大半はこの本の出た直前のものを意図して収録したことだ(木村は欧米に留学したのでその関連エッセイが多い)。

 

この中に「青年と愛国心」(昭和28年)という一文があるので引用してみたい。

 

愛国心とは、たとへ自分の国が現在悲惨と醜汚にみちてゐても、なほそれを愛する心である。現在不正義と貧窮がみちみちてゐる国を愛する途は何であろうか。それは自分の国から貧窮と不正義と醜汚とをとりのぞくべく努力することにほかならない。さうして自分の国を一歩でも正しく豊かに美しい国に向上せしめようと努力することにほかならないのである。愛国心は一言でいへば、自国の生活と文化とを築きあげやうとする不退転の意志である。盲目的熱狂的排外主義が愛国心の名にあたひしないのは、それがこのような積極的建設的意志と努力とを蔑ろにしてゐるからである。このやうに考えると、愛国心は一国の独立と幸福と、さらに世界平和の確立とを推進する根本的動力である。(略)愛国心は単なる激越なる感情ではなくて、それは毅い意志と、慧い叡知と、ふくよかに美しい情感との交響曲である」。

 

木村の弟子には小宮隆太郎氏がいて、その弟子が岩田規久男先生である。木村の経済思想史の業績には、岩井克人氏にも影響を与えたアダム・スミス厚生経済学的解釈や『厚生経済学序説』がある。また戦後の経済学教育に大きな影響を与えたいくつかの書籍も編集している。

 

 

 

 

自由論 (岩波文庫)

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