経済学者の山田雄三は、計画経済論、日本の国民所得統計、社会保障の整備などに大きな貢献を残したことで知られる。また晩年の様子は城山三郎の小説『花失せては面白からず』でも有名である。
山田は経済学者なのだが、城山の小説の表題にも活かされているように、謡曲についても一家言あり、謡曲について重要な論説を書き遺している。それは主に謡曲のドラマ的な要素に注目することで、価値判断(価値感情)の問題に焦点をあてたものといえるだろう。
経済学は通常、事実判断と価値判断を区別している。また価値判断には、きわめて主観的な感情と、一定の事実認識が含まれている。この点については、先日このトークイベントでも言及した。
ところで謡曲を評価する態度は、もっぱら価値感情の世界に属するものである。謡曲のドラマ的要素は、確かに「事実」ではあるが、それはあくまでも仮想的なものとしての「事実」であり、経済学の対象とする事実とは区別される、と山田雄三は考えた。
このドラマ的要素を「事実」として把握することを、山田雄三は事実直感と表現して、「一般の価値判断に部分的に含まれると考えられる事実認識とは区別すべき事実直感である」(『謡曲に見る人間研究ー無常観とその昇華』1990年、82頁)と述べた。
山田雄三は世阿弥の思考をたどりながら、謡曲のドラマ的要素における醜さ、汚さ、そして悪の「事実」が、一転して美的なものとして脱する過程を重視している。そのような美化の過程を、山田は「昇華」とする。
「それは世阿弥の狙う美は、能劇というドラマと結びついている舞や謡の美である。世阿弥はここで「物真似」というやや異様な言葉を使って、「物真似を取立ててしかも幽玄ならんとす」といっているが、私はそれをドラマ的美と解してよいと思っている。……世阿弥のいう幽玄はドラマ的要素抜きで考えてはならない。例えば『羽衣』の天女の舞がそうであって、その背景にはドラマとして漁夫との問答があり、とくに漁夫の「いや衣を返えしなば、舞曲をなさでそのままに天にやあがり給うべき」という人間の疑心にちぃて「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」という言葉がある。こうして天女の舞曲は俗界の汚れから脱して浄界の美しさを称えるものになり、そこに幽玄という深みが感じられるのである。私はこのような美化の思考を「昇華」と名付けたいと思う。現実の汚れの世界を直視しながら、反射的に美の世界を憧憬しようとするからである……能劇ではもっぱら美醜という感情の領域での昇華が問題である。……能劇ではむしろ美醜・清濁の価値転換が問題になる」(同上、48-9頁)。
「世阿弥一派の芸風の特色は、それまでの申楽と違って、幽玄を物真似(ドラマ化)と結びつけたところにあるといわれる。しかもそのドラマ化は多くの現実の悩みや憂いをとりあげ、それを美しく演出しようとするところの美醜・善悪の価値転換に特色がある」(同上、55頁)。
山田はまた謡曲における「事実」「現実」の直感には、その「現実」が現実批判につながる部分があると指摘している。例えばドラマにおける老いや貧しさ、悪は、それ自体は仮構された「現実」であるが、他方でなんらかの現実を批判する態度がこめられているとする。
また謡曲の大半には「無常」が中心的な思想としてあるが、これは世の乱れなんともやりきれない現実への態度である。ところがこの醜・汚・乱れといった状態から距離をおき、乱れや汚れのない状態を象徴的に憧憬するのが、山田のいう「昇華」である。
「無常観をいだきながら、現実の苦難・汚濁からの脱出を願、苦難・汚濁なき世界への昇華を求める思想、そういう一種の価値転換を含む思想が能や謡曲の根底にあると私は思う」(同上、79頁)。
「無常観は事実直感であると同時に価値判断である。昇華はこの価値判断の転換である」。
そして山田はこのような無常観や昇華といった価値感情は、「直接には社会制度の事実に関心をよせないけれども、そういう問題の存在を一切無視するほど運命論的ではない」と、すでに上で述べた論点を、今度は「運命」との関連で再説する。
山田が追求した社会保障制度の改革といった現実をかえる実践的な試みとはいえないが、その現実となんらか照応する「(仮想的)現実」を謡曲はドラマ的部分で展開し、それによって現実=「現実」への批判を、無常観の価値転換(=昇華)として見せているのが。謡曲の重要な側面である、というのが彼の主張であろう。
そして山田雄三のこのような謡曲における価値転換論は、最近では「物語消費」(タイラー・コーエン)、「こころの消費」(トマス・シェリング)として分析されているものの先駆形態であると思われる。