最近、最も刺激を受けた本のひとつ。特に第二章の黒田喜夫、第4章の川田絢音の詩と自身の体験を扱った章はすばらしい。ただ最後の井坂洋子の詩を扱ったところで大きく減速。
詩はいまだ体験しえない時間を先取りしてあるときは実感させてもくれるし、またほとんどはずっと中途半端な答えのまま、読者の中でずるずる残り続ける。
「しかし、だれにでも通じることばは、深みというものをもたない。「通じる」度合いが高ければ高いほど、そのことばは記号化し、符牒のようなものになっていく。詩のことばは、そうしたことばの対極にある、孤独のためのことばだ。安易に通じてしまってはいけない。詩のことばは、母語でありつつ異国的なことばである。詩が難解であるとしたら、それは必然なのだ」
生きていくこと、その中で詩を読むことは、作者の言葉を借りれば、「高次元」のなにかを「予告編」としてみることだと納得するところが多い。
本書は本当にいい本なのだが、ところどころに散見される「効率性」についての考察がうすっぺらいように思える。そこだけがとてもつまらない。
なんで人は、効率性や自己責任(単一の自我)やらを批判するときに、かくも凡庸になってしまうのだろうか? その批判する人が感受性や共感性をもてばもつほどその批判の調子自体が、画一的なもの、よく見かけるもの、無個性なものに還元されてしまうのか。例えば効率性の単一ならざる面を忘却するなど。このことは村上春樹のカタルーニヤでの講演でも感じたことだ(関連するリンク先)。

- 作者: 渡邊十絲子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/05/17
- メディア: 新書
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