玄田有史『希望のつくり方』、希望・絶望・カルト

 物語の経済学を『AKB48の経済学』を公刊したことをきっかけに(それ以前から試行錯誤をしていたことは注意深い人はわかっていたろうけど)関心が増している。その中でこの玄田氏の著作に出会った。玄田氏の発言には賛否を論点ごとに示しているが、今回のこの本でも他の部分には首をかしげたが、この第3章「希望という物語」は参考になることが多かった。

 「希望は、不安な未来に立ち向かうために必要な物語です。希望があることころには、なにがしかの物語が存在します。物語の主役は、かならず紆余曲折を経験します。挫折や失敗の一切ない物語はありません。あったとしても、おもしろくありません。……希望という物語も、しばしば画一的な解釈を許さず、ときには矛盾に見えるほど多様性を含んでいるのです」

 玄田氏の解釈で問題があるとすれば、「物語」が「希望という物語」にほとんどイコールにされてしまっていることだ。少なくとも物語と希望という物語の差異に対する配慮がゼロだ。これはあまり説明としてはいただけない。「希望のない物語」も「希望の物語」と同様な社会的な役割や、個人の存在証明を支える機能を有している。例えば頭から尻尾まで救いようのない悲惨な物語(しかもそう紆余曲折もない話)さえも、人によっては「両義性」(例えば、それを消費する人に活力を与えたり、同時に活力をそいだりする)をもつ。

 つまり希望のないこと(=絶望)の本質が物語性であり、その物語の特徴に両義性(というよりも多義性)があることは少しもおかしくはない。人は絶望と希望をどちらを区別することなくあいまいな状況で経験している(=物語る)こともあるし、その境界はまま曖昧だ。それは混乱した状況ではなく、むしろ日常性と切っても切り離せない。人が明白に「希望」「絶望」を物語ることは、どちらかというと硬直した(難しい表現だが、譲れない何か、あるいはある視認の立脚点への固執という)体験ともいえる。しかしその点への配慮を玄田氏の本は欠けている。希望は物語の単なるひとつの固執点なのかもしれない。そのためらいというか、僕の視点が希望学全体をカルト的な心性(物語空間のある特定の一点への固執)として批判的にみなしてしまう。そう、アマルティア・センの批判した宗教連合に近いもの、希望連合のようなものが、この本から読みとれてしまう。

 なので以下の指摘も僕も「どっちつかず」とか「あいまい」とか「一流ではなく三流とか凡庸」などという概念と、物語性が親和的だと思うが(この点は以前、この研究会の席上でも何度も指摘した)、玄田氏のように希望の優越性の中で語ることには疑問を感じる。

「希望の本質の一つは物語性であり、その物語の特徴は両義性である」……「希望を理解する上で、両義性、いいかえれば「どっちつかずの状況」に着目する……わからなもの、どっちつかずのものを、理解不能として安易に切り捨てたりしない。自分が理解できることだけに、こだわりすぎたりしない。それが希望という物語を、自分の手で紡いでいくための知恵なのです」。

 おそらく玄田氏の希望学とカルト的運動(一連の象徴的ポーズ(=「希望のポーズ」)の推奨なども含めてカルト的心性や運動パターン)との区別こそが今後問われていくのかもしれない。これはもちろん批判的な意見なのだが、およそカルト的なものと物語との強烈な交錯こそ(一例をあげれば、村上春樹氏のオウム真理教事件のルポと彼の意識的な物語の試みはこの意味で重要だ)、物語の経済学の最重要な課題だと僕は思っている。なので希望学=カルトなどと頭ごなしにみなしているのではないことを(ろくに原典も読まないで粗い解釈の人がわりと多い)ネット向きに書いておきたい。本書全体からはカルト的なものの意図的排除(その端的表現が、絶望の物語の排除=希望の物語の優位)が濃厚な印象としてあるからだ。それはカルトを排除することで、自らカルトに陥る危険性を、物語空間の中でもっているといえるのではないか?*1

希望のつくり方 (岩波新書)

希望のつくり方 (岩波新書)

*1:ちなみに玄田氏のこの本の立場からすれば露骨な「排除」」ではなく、本文でも書いたがなんらかの希望連合として、カルト的なものとの折り合いがあるかもしれない。それはむしろ物語の複数性、多義性を殺すものとなろう。参照:アマルティア・センアイデンティティと暴力』