石橋湛山はレジーム転換後に何を語ったのか?(メモ書き2)

 以下はtwitterの記述をつなげたものに微修正を加えたもの

 僕は、高橋是清をあんまり評価していない。当時の「リフレ派」高橋亀吉石橋湛山も結局はそうだったのではないか。特に石橋湛山高橋是清財政評価は時に苛烈な批判に通じている。ところでその苛烈なる批判を見る前に、石橋湛山が当時の日本経済の名目経済成長率を3%に見定め、それで財政の維持可能性(名目経済成長率と名目利子支払いとのバランスで考えるもの)について語っていたことは面白い。

 ちなみに高橋財政の時代も「三本の矢」議論があったww。本当に日本の官僚の文化的遺伝子は健在で「3」がお好きらしい。その「三本の矢」当時の言葉では「三大改革」は、1財政税制の改革2教育&思想改革3農村問題改革、であった。1は高橋是清が担い事実上のリフレ政策であり、湛山は一応好意的、3は当時の「成長戦略」だ。で、湛山は、1は評価、2は問題あり、3も問題あり、といまのリフレ派に似ているが3つのうちリフレ政策以外は、当時の「三本の矢」=三大改革を支持していない。面白い。

 湛山の1932年のレジーム転換後の高橋財政評価は、前半はほぼ手放しの絶賛。ところが後半(1935年後半)からは、湛山は是清を「自己矛盾」「行き詰ったのは、公債でも、財政でもなく、蔵相の頭である」と批判している。湛山の是清批判は、リフレ政策の原則を是清は昭和10年度予算において見失っているとするものだ。リフレ政策の原則とはなにか? 以下に湛山の発言を引用する(『石橋湛山』第9巻「高橋財政に対する批判の提言」より)。

昭和7年度から最近まで見た如く、公債に依る財政膨張が国民の生産力を動員し活躍せしめる作用を営む限り、公債発行は決して悪性インフレを導くものでも、財政を破綻に誘うものでもない」。湛山はこの意味で公債の発行余地があると述べている。しかし是清の当時のスタンスは公債過剰発行論だった。

 つまり昭和11年度予算の段階では、是清は公債過剰発行論者=財政緊縮論者として、湛山の前に現れることになる。もちろん他方で石橋湛山は、当時の予算編成における大蔵と軍部の財政「思想」の対立をみている。大蔵は是清に代表される緊縮モード、軍部は拡張モードだ。しかし両者は、先ほどのリフレ政策の基本原則を欠いた「思想」であることでは同じである、というのが湛山の批判の要所である。

 さていまの「固定金利オペ」問題ににているが、特定の国債利回りが金融政策の名目アンカーになってしまう危険性を指摘したのが、四分利公債(4%の固定金利の長期公債)問題だ。湛山はこの四分利公債の利回りがアンカーになっているために長期利率がリフレ政策によっても低下しないと批判している。もちろん今の状況とは制度も違うし、そもそも「固定金利オペ」の方は名目金利の低利誘導という疑似アンカーが問題になっているので、当時の4%公債の下限「アンカー」的機能とは異なるといえる。ただし両方とも先に述べたように、低インフレという名目アンカーをかく乱する効果を持ち得た点では同じだ。

 ところで私見では、湛山の時代の4%公債の存在は、それほどリフレ政策の効果を減ずることがなかったように思われる(結果だけみれば目覚ましいリフレ効果を発したのは歴史に明らか)。なぜか? 当時は、期待インフレ率のコントロールに成功し、予想実質利子率が切り下がったからだろう。現在の教訓を得よう。「固定金利オペ」の「拡充」がリフレレジームの揺らぎとして受け取られてしまえば、この期待インフレ率の上昇は阻害され、この「固定金利オペ」が(インフレ目標に代わるか、あるいは両頭の)名目アンカーとなってしまう可能性が起きてしまうのではないか?その危険性を暗示する。