リフレ政策(黒田・岩田日本銀行の大胆な金融緩和)に関係ないものまでしょわせて批判する悪質な言説について

 資産市場(株、為替レートなど)がリフレ政策の初期において急激に変化することは、僕らは何億回もいままで書いてきたし予見してきた。この動きがやがて物価や雇用にはねかえることも書いてきた。その時間の経過を待てず、待てない連中がやることは、足のひっぱり=デフレのまま停滞がいい、とする愚劣である。

 ちなみに小泉政権後期から安倍政権において、半リフレ的状況がうまれた(為替は1ドル110円台、株価は18000円台)。そのときは資産価格だけではなく失業率も急減して5.5%から3%台後半まで下落した。高卒、新卒は大幅改善し、ニートも減少した。これが気にくわない連中がいた。

 彼らが目をつけたのが「貧困」や「経済格差」。日本の「貧困」の多くが長期失業の裏返しなんだが、そんなことはおかまいなく、彼らは「おれの苦しみは解消されない」という論法にでた。また構造的な問題(格差の多くは人口増による要因があった)を、あたかも循環的な問題にすりかえて大喧伝した。

 もちろん半リフレ的な状況なので、まだ名目所得の大幅な改善や物価の安定には程遠く、それも彼らは悪質な煽りの素材にした。「(物価の改善や雇用の改善を無視して)給料があがってないじゃないか」と大声でどなる。そもそも失業率の改善の後に、名目所得(つまりわかりやすく言えば給料)の大幅改善がこなければ、理屈的に、失業率の低下スピードは遅くなってしまう。だがそんな理屈は無視だ。

悪質な彼らは、「貧困」「経済格差」をその理由も無視し、ともかく身近な例を誇張することで、イメージ戦略で(デフレ脱却を阻止したい)マスコミや日銀のエージェントたちと協力して勝負にでた。その結果が、民主党政権の誕生にも帰結している。悪質な彼らはまだ勢力を維持している。

さすがに民主党政権のトンデモない政策のオンパレードが国民の大反感を買ったので、いまはおとなしくしている。先日、ここでも僕が「いたいた」といったように、ネットの片隅でもかなりグルーピングされて、デフレ脱却を嫌うようなそぶりを依然として大勢力で維持している。隙あれば足をひっぱろうと。

ただしデフレ脱却の最大のキーである日本銀行をまさかデフレ脱却派、つまりリフレ派ににぎられるとは、その悪質な彼らも予想だにしなかったろう。僕らもいまだに唖然としているくらいだから。その意味で政策的な意味では勝負あったといっていい。ただし悪質な彼らの過去20年のふるまいと、いまだ健在している「悪意」をみるに、まだまだ安心はできない。

悪質な手口にはいろいろあって、典型的なのは、「リフレ政策に関係のないものまでぜんぶしょわせる」という論法。個々人の不満の解消、個々人の生活のつらさの具体的な解消、社会保障制度の制度改変やそもそも社会を変えること。そういう関係ないものでリフレ政策を批判して支持者を増やす下劣な手口。

ちなみにデフレを脱却した方がしない方よりも社会保障制度の維持可能性は大幅に改善する(=弱者も恩恵を与る)。リフレの足をひっぱり、デフレを維持していくことが、結局、この社会保障制度をダメにし、ダメにすることで、悪質な彼らは彼らの脳内のパライソを実現しようとしている。まさに愚劣の極み。

そういう悪質な論法の持ち主は、さも自分が「決して解消されないしんどさ(=これはリフレ政策などおれらには関係ないところだけよくなる政策の帰結のせいだ)」をもっていて、「おまえらのことがよくわかるオレ」みたいな「共感」戦法が得意だ。ペテン師並みに戦略だが、残念ながら騙される人も多い。

ところで、“「リフレ政策に関係のないものまでぜんぶしょわせる」という論法”は、日本銀行(いまの日本銀行とは違う消極的な姿勢でデフレ不況を放任していたつい半月前までの日銀)がかって得意としていたもので、いまでもリフレに批判的な論者が悪用する論法。僕の2001年の処女作にもこの種の例はたくさんあるが、当時の日銀理事の「金融政策では構造改革はできない」とかいうものなど。

「金融政策では構造改革はできない」ということで、あたかもリフレ派がその種の主張をいっているような「なんでもしょいこませて批判する」という典型的な手口だった。いまでもやってる人は多い。

結局、今朝書いたことは2001年に野口旭さんとの『構造改革論の誤解』に、基本的にすべて書いてあることだ。この本の復刊か文庫化がいいのだが、まったくそういうオファーがない。貧しい編集世界だ。どなたか意欲的な編集者の登場を願う。2013年版の補論もふたりで書きます、笑。

構造改革論の誤解

構造改革論の誤解