田中秀臣「いま『貧乏物語』を読み直す」

 ちょうど一年ほど前に、藤原書店のPR媒体「機」(286号)に寄稿した「いま、『貧乏物語』を読み直す」の草稿を掲載します。「機」そのものに掲載されたものとは細部で異なるので、論文などで参照する際は本誌の方を利用ください。

世紀を超えて読まれる危機の書

 河上肇の『貧乏物語』が大阪朝日新聞に掲載された今年でちょうど100年になる。一世紀前の著作だが、いまだに世紀を超えて読み継がれる意義がある。『貧乏物語』は20世紀のはじめに、イギリスなど欧米で一般的な光景であった「豊かさの中の貧困」がやがて日本にも到来するという、河上肇の危機意識をもとに書かれたといっていい。ここでいう「豊かさの中の貧困」とは、河上肇の指摘では先進国の中で「経済上の不足」に陥る人々の状況を指している。河上によれば「経済上の不足」とは、「生活の必要物を享受しておらずという意味の貧乏」である。しかもこの意味の貧乏が、都市の豊かさの背後で着実に進行している、というのが河上の問題意識であった。
 生活を維持することができないギリギリの経済状況を、河上は「貧乏線」と名付けたが、これは食費、被服費、住居費、燃料費、雑費などを含める「一人前の生活必要費の最下限」である。いまでいうナショナルミニマムに該当する福祉思想を河上が念頭において、「貧乏」の問題を捉えていたのは間違いない。
 と同時にこの「貧乏線」以下の境遇におかれる人たちがなぜ今日の豊かな経済大国に多いのか、その謎を究明し、それに対して適切な処方箋を提起することが、『貧乏物語』の狙いであった。

なぜ「物語」なのか

 ところで『貧乏物語』は、なぜ題名に「物語」がつくのだろうか。もちろんノンフィクションを想定して書かれたわけではない。他方で、専門的な内容が中心だが、「文人河上肇」の真骨頂を示す「作品」でもある。一気に流れるように読める文体、古今東西の古典や歴史的資料への膨大な参照、そして文明論的な警句にも充ちていて、絢爛たる織物を見ているがごとき著作である。その意味では「貧乏の経済学」よりも「貧乏物語」の方がふさわしかったのかもしれない。この「物語」を織りなす縦糸は生命誌的視座であり、横糸は東西文化論である。前者では、まず河上は蟻の社会を解説し、さらに原始時代にまで遡って人間の由来とその特質を解説する。蟻の社会でも高度な進歩が観察できる。しかし人間にはその原始時代からひとつのユニークな点がある。それは道具の利用である、と河上は指摘する。この道具の利用が順次進歩することで、人間社会は蟻の社会とまったくレベルの違う豊かさを手にいれたとする。また横糸では、『貧乏物語』を書いた数年前の欧州諸国での留学経験が反映している。日本は個人がなく、国家中心の「国格」であり、他方で欧米は個人中心の「人格」の国であるという東西文化の比較である。この縦糸(生命誌的視点)と横糸(東西文化論)は、『貧乏物語』の「貧乏」分析に興味深い特徴を与えている。

ナショナリズムヒューマニズムの相克を超えて

 河上によれば、道具の利用によって他の生物とは比較にならない生産性を手にいれ、それが豊かさを実現しえたに見えた。しかし実際には現在の欧米諸国には「貧乏線」を下回る人々が多い。なぜか? 河上によれば富裕層の贅沢によって、貧困層の生活必需品が不足しまたその価格が高くなったがためである。いわば経済格差が、河上の「貧乏」を生み出している。ここにトマ・ピケティの『21世紀の資本』
の議論を思い出すこともできる。この「貧乏」はやがて日本にも到来するだろう、というのが河上の見立てだったろう。
 他方で、東西文化論の視点でいえば、この「貧乏」への対策は、欧米と日本では異なる。欧米は個人の生活をあくまで救済するためにその政策が設計される。対して日本はあくまで国家中心にその「貧乏」の解消が求められるだろう。例えば国力の伸長に貢献する健康な国民を損なうことがないように。あくまで国が中心で、個人はその付属である。
 河上は日本のこの国家中心的な「貧乏」対策を、人間中心的なものに転換する必要性を感じていたに違いない。ナショナリズムヒューマニズムの対立とその相克は、河上の格闘でもあったが、いまだに我々の課題でもある。

貧乏物語 (岩波文庫 青132-1)

貧乏物語 (岩波文庫 青132-1)