石橋湛山の東京裁判における幻の弁護側資料:東京裁判史観と日本銀行史観の類似性

 小堀桂一郎氏の編集になる『東京裁判 幻の弁護側資料』に、石橋湛山極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)に提出した宣誓供述書と附属資料が掲載されていた。題名は「日本の工業化、侵略戦準備に非ず」と本では付されている。湛山は当時、東洋経済新報社長、大蔵大臣である。

 戦後まもないころの石橋湛山の活動や彼の主張はこのブログでも全集未収録資料の発掘を含めて、かなり行ってきた(ここここここここここなどを参照)。

 冒頭には石橋の自書になる経歴が書かれている。特に英文誌The oriental Economistについての自己評価は興味深い。

「英文(The Oriental Economist)を創刊主宰し、日本及東洋の経済事情を世界に紹介す。同紙は日本に於ける最も公正にして信頼すべき経済雑誌として発刊以来外国読者の間に名声を博し、昭和十六年太平洋戦争勃発し日本と西洋との通信途絶した後に於いても特にジュネーブの国際聯盟の要求に依り継続して同聯盟宛発送された」(443頁)。

 湛山は続いて湛山の戦前・戦中の日本経済論が、その国際的な文脈の中で語られ、日本の工業化が侵略戦争を準備するものではないことが述べられている。

 戦前の日本の経済と政治の特徴は人口過剰の圧迫から発生していると断じる。人口増に比しての耕地面積の低下、さらに人口の中の農業人口の高比重の指摘を行う(それは現状も47%の高率であると指摘)。これらの要因により、農業経営単位が過小に。食糧自給の困難の指摘(輸入の必然)。

 この人口増圧力に対する日本の政策は4つ。1.農業の生産性向上、2.朝鮮・台湾の農業開発と米の輸入の奨励、3.海外への移民(効果は乏しい)、4.国内の工業化と外国貿易の奨励。この4こそが明治以来、日本が事実として採用していた経過。

 日本の工業化は1909年以降増加し、10年代終わりから30年まで「不景気時代」で停滞。

「併し此の不景気時代は日本に於ては一九三一年を以て終り一九三二年からリフレーション政策が取られた為め工業も亦俄然繁栄期に入り」職工の数も増加した。一九一九年と一九三一年のそれに比して、リフレーションによる繁栄によって職工数は倍増。「一九三一年以来の比較的急速の進歩は実はその年以前十年間の遅滞を取り返す運動であつたに過ぎず何等異常の進展ではなかった」(449頁)。

 つまりここで石橋は、東京裁判における連合国側の主張である、侵略戦争のために31年以降急速に日本が工業化していったという主張を否定する証拠を述べ始めるのである。先にいうがこのような連合国側の主張は、まさに現在の日本銀行とその政策支持者が利用するリフレーション政策の成果否定のレトリックと同じである。つまり「リフレーション(その成果の工業化、景気回復など)が、戦争を招いた」とか「戦前の日本のデフレ脱却は戦争によってなしとげられた」などなどとまったく同じである。

 要するに結論をいうと、東京裁判史観と現代の日本銀行史観は全く同じである。ここに戦前のデフレ不況とその後への評価に対する日銀史観のルーツのひとつをみることを否定することはできない。

 さらに湛山は産業構造の変化とその31年以降の加速化も「後進工業国のたどる経過」とデフレがあまりに経済を低迷させたために回復が急上昇にみえただけである、という意見を述べている。また貿易、諸外国からの経済的圧迫などを湛山は詳細に論述していく。

 この続きはあとで書く予定。