稲葉振一郎&栗原裕一郎「タイラー・コーエンと日本経済論」のメモ(コーエンの悲観と楽観、多元的な立場とそれがもたらすリスクなどの考察)

BRAINZ at SNAC by HEADZ 稲葉振一郎×栗原裕一郎の「人文系の壁」第3回 「経済学(続)」を聞くために初めて清澄白河に行きました。下町ですねえ。明るいうちに来てみたいなあ。

 さてこの講演会についてつぶやいた内容を以下にコピペ。

 観客には、僕、若田部昌澄さん、片岡剛士さん、石垣尚志さんらがいて、日本のコーエン通が集合。若田部さんからコーエンの「へそ曲がり気質」に言及あり。

 コーエンの「へそ曲がり」気質をめぐる論点としては、彼の著作の二系統ー『大停滞』に代表される悲観的な経済ビジョンvs文化経済学的な著作での楽観論ーの対照的なイメージはなぜなのかについて。

 『大停滞』は米国にはイノベーションが枯渇した話。経済学では米国にはイノヴェーションが担保されてる話が主流、それへの対抗意識が強くでている。 

 他方で、文化経済学的著作の楽観的ないし積極的な主張は、たいていの経済学は文化的な要因を軽視ないし無視していることへの対抗、という意味合い。

 前者では悲観的なメッセージが前面、後者では楽観的なメッセージ(文化の交流は伝統的な文化を一部破壊してその意味での多様性を損ねるかもしれないが、長期的には別な多様性をもたらす等)、というイメージ的な対立。

 彼のキャリア(ジョージ・メイソン大の知的風土=つむじ曲がり経済学者のたまり場、シェリング=つむじ曲り経済学者の弟子)からもいえる。

 僕の方からは、コーエンのお気に入りの経済学者のアルバート・ハーシュマン自身もへそ曲がり気質で、常に自説含めて自己否定をくりかえしてきた存在。それを敷衍して、多様で一見すると反発するかのような主張を同時に合わせもつ「コーエンらしさ」こそ、彼のフォーカルポイントでもある。

 この話題について、https://twitter.com/keynes_2013さんとのやりとりがあったのでそれもメモ。きわめて重要な議論。

@keynes_2013:少し前ですが、さまざまなイシューをめぐる楽観と悲観の入り乱れについてはコーエン自身がリストアップしていましたね。つ About what am I optimistic and pessimistic http://marginalrevolution.com/marginalrevolution/2011/09/about-what-am-i-optimistic-and-pessimistic.html

 田中:そうでしたね。そういういろんな面があるのが人間という存在で、同時にそれをまとめる焦点(フォーカルポイント)をもつのもまた人間である、ということなんでしょうね。RT @keynes_2013 「私はプルーラリスト(plurarist)だ」といったようなことも語っていましたね。

 @keynes_2013: 自己欺瞞に陥らない術の一つとして特定の立場に与しない(意識的に多元的な見方を心掛ける)ということを実践してるのかもしれませんね。コーエンの比較的最近の関心であるAutismの問題も関係しそうですね つ http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=1975809

 田中:コーエンがあまり注目していない論点のひとつには、自己欺瞞を避けるために、多元的な態度をとることが、しばしば特定の立場をとる人たちからはそれ自体が許しがたい欺瞞にみえることがあることでしょうか? コーエンの自己欺瞞を避けるために多元的な見方に立つという見解は面白い。ただこういう多元的な態度をとると、特定の立場しかとっていない一元的な立場の人からは、欺瞞的な態度にとられるリスクはある。

 
 @keynes_2013:夜分に何度も粘着してしまい申し訳ございませんが、ロビン・ハンソンのこのアイデンティティを巡る仮説に照らすと、多元的=予測困難であり「自己」のない(あるいは不安定な)人間と映るのかもしれませんねつ http://www.overcomingbias.com/2009/08/a-theory-of-identity.html

 田中:ハンソンはやはり天才です。「なぜ多元的な態度をとる人があまりいないのか? ひょっとしたら一元的な態度の方が楽だからではないか?」、いつも思う問いのひとつです。

 またコーエンと村上泰亮との関係についてもつぶやいたので以下に。

講演会では、「文化遺伝子」という名称でみんな話してしまったが、正確にいえば「文化子「文化子」は主に「技術的文化子」(生産技術に関る伝統や文化の情報)、「消費的文化子」(消費主体のtasteにかかわる文化的な情報)に大きく分けられる。コーエンの二系列の議論にそれぞれ該当している。