復興の経済学ー関東大震災の経済学者たちー

 以下は近刊予定の『福田徳三論』から一部分を抜粋したもの。前後の文脈に依存している箇所がありわかりにくいところもあるだろうけどそこはお許しを。

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厚生経済への移行過程ー復興の経済学ー

 1923年(大正12年)9月1日、関東地方を中心にマグネチュード7以上の巨大地震が襲った。関東大震災の余震がまだ続く中、福田は震災の経済的影響の調査を行い、それを一書『復興経済の厚生的意義』にまとめた。
「ここに大正一二年(1923)年九月一日わが関東地方を襲った大震災は、端なくも、われらに、その力と勇気とを振い起こさしむべき機会を与えた。私は、同学諸君の驥尾に付して、この試験に応ずべく、一方書斎内において、他方街頭に出でて、自分の微弱なる心力と体力の及ぶかぎり、あるいは思索し、あるいは奔走し、あるいは調査し、あるいは勧説することに努めた」 。
 福田は学生たちの協力を得て、またみずからも「水筒を肩に、ゲートルばきで、トラックや馬力の絡繹たる巷を駆けずり廻った」のであり、『復興経済の厚生的意義』(1924)にはそのときの調査と経験を基にした福田の震災復興に対する考えが非常な説得力をもって書かれている。また同書は、福田の目指した「厚生の経済学」の核心ともいえる思想に一貫として支えられていた。
 福田は、大震災による被害を、「私の立場から見た経済上の損失なるものは、地震のために倒され、火事のために焼かれた富では」なく、むしろ無形財に「将来」にわたる損失があることに求めた 。いうまでもなく幾多の人命が直接には震災で、間接には「国士となのる輩」によって失われたことが最大の損失であると福田は嘆いた。「幾多の人命」には、当時虐殺された朝鮮人・中国人、社会主義者らが含まれていると考えていい。その上で、彼自身の最も強調する無形的な損失とは、罹災した人々の失業であり、より直接には失業による労働者の(1)技能的・職業的損失、(2)道徳的性格の損傷であった。前者の問題は、当時政治的な問題にまで発展した火災保険金問題や土地家屋の賃借権問題と関連するものであった。失業問題がどのように火災保険金問題や土地建物の賃借権問題と関係するかは後述するが、(2)の罹災者の道徳的性格の破壊として、それはもっぱら復興政策のおそまつな避難住居への批判としていわれていることにまず注目したい。
「集団バラックにおける徳性の破壊については、私は幾多の事例を目撃した。風紀などはいうもでもないことであるが、私のもっとも恐れるところは生存の肯定力の薄弱化これである。ことに正しく人らしく生きんとする意思の減損これである。したがって、今日の経済生活の根本基調を成す営生の衝動の悪化これである」 。
 「生存肯定の薄弱化」こそ「無形の財物の破壊の最大項目」であると福田は強調した。罹災者の仮設の住宅が、衛生面や利便性などの点で、まったく住むものの適性や能力を無視したものであるとする福田の批判は、関東大震災から70年以上たって阪神大震災を直接・間接に経験したわたしたちの共感を素直に呼ぶ。
 福田のこのような震災の与えた損害に対する基本的な見解は、当時の他の経済学者・社会主義者たちの見解とは異なる主張であった。例えば、福田の弟子のひとりである小泉信三の主張は以下のようなものであった。
 小泉は、ピグーの『厚生経済学』や『戦争の経済学』(1922)での主張をうけて、「災害はまず有体財の破壊」であると定義する*1。この定義自体、福田の災害を無形財の損失とする見解と対立するが、小泉はすすんで論点を政府の「暴利取締令」に絞って次のよう批判した。
 小泉によれば、震災を復旧するための造営物などの建設やそれに関連する財貨の価格騰貴は、あまりに抑制することはかえって「帝都復興」の妨げになるとする。なぜなら、それらの財や資本は利潤を目的に充用されるのだから、その利潤を必要以上に制限することは、かえって経済原理を妨害し、資本の充用を阻止してしまうからである。
「少しばかりの戦争『暴利』(プロフィチャリング)は、生産の大阻害よりも害が少ない。大なる『暴利』は極く少しばかりの生産阻害よりも有害である」とピグーの言葉を引いて主張を要約している 。
 小泉が、もっぱら「帝都復興」を、破壊された建物や施設などの有体物の再建と等しいものだとしていたことは、罹災者の失業問題について福田に比べて格段に問題とするところが少なかったことでも傍証される。確かに、小泉は福田と同様に学生を利用した罹災民調査を行ったが、途中で問題意識を失ってしまっている*2
 小泉は福田による批判をうけて、自らの見解があまりにピグー贔屓であったことを反省しているが、小泉の「有体物の破壊」を震災の本質とする見解は、政府の施策者をも含めた当時の多くの識者の意見を代表するものであったといえよう 。
 福田は後藤新平らのすすめるいわゆる「復興院」の復興政策は、「都市計画の一事を出ていない」と批判し、それは単に「江戸式東京とその時代おくれな諸々の有形、無形造営物の旧態回復」にすぎないと断じている*3。むしろ今回の震災を機に、「新旧代替転置」を図らなければならないとした*4。だが、実際には急を要する社会政策の実施がみられないばかりか、非常時を便法にして普通選挙制度の導入や健康保険法の制定すら遅らせる気運があると政府を批判している。
 福田は罹災民調査の結果、東京市の失業者を全体でほぼ14万7千人であると推定している*5。福田はこの失業調査について、従来の日本ではこの種の調査が行われなかったことが、現実に適応した社会政策の実現を困難にしていた原因のひとつであるとし、その意義を強調している*6。またこの失業調査を支える理論的な基盤は、自らの主張する「経済民勢学」 Economic Demographyであった*7。「経済民勢学」とは、福田によれば従来の経済統計と経済地理を統合したものであり、「人間の生活態様の統計的計究」である*8。具体的には、失業調査を指すのであるが、特に職業によって社会的な地位(「民勢学的分類」ともSocial Colorともいう)を表わすとし、職業別の失業調査に力点を置くものとなっている*9
 福田は、ローントリーやピグーらの失業概念を批判している。ローントリーらは、失業を主に「雇用失業者」と同義にして考えている。だが、「今回現在の罹災者失業問題は平時の失業問題」と異なる。
 ところで福田の「失業」とは、第1に「雇われ口のない賃金労働者」(「失職者」)と、第2に「広く職業を失い之を快復し能わざるものの全部」(「失業者」)を含むものであった*10。このような失業概念の拡充は、震災下という異常な状況のみに妥当する議論として、福田は考えてはいなかった。なぜなら、すでに述べたようにここでいう「雇われ口のない労働者」は、初期配分が図表3におけるb点にある者のことであり、また「広く職業を失い之を快復し能わざるものの全部」とは、初期配分がc点にあるもののことを指すからである*11。後者は、主体の保有する労働の質が提供されている職業や働き口に対して適応不可能であったり、技術や才能がいかされないための失業と考えられる。そして両者ともに、福田の失業理論では、政府の介入なくしては救済されない状態にある*12
 なぜなら、こと震災下の特殊な状況であっても、「平時」と同じように資本主義的なメカニズムでは解決しえない私的な契約の瑕疵があり、この瑕疵を修復しないかぎり、失業者の救済は不可能だからである*13
 この震災下における私的な契約の瑕疵とは、先に挙げた火災保険問題と土地建物の賃借権問題であった。この両者が、災害に遭遇した企業などの足かせになりいっこうに失業対策がすすまないと福田は考えたのである。
 火災保険問題とは、これは戦後、阪神大震災などでも話題になったが、火災保険には、地震による火災については特約免責条項があり、そのため罹災した企業や民間人には支払いが行われなかった。また土地建物の賃借権問題とは、地震や火災などで倒壊・消失した工場や家屋などがあるいは賃貸され、あるいは賃貸していた土地の上に立てられていた場合に生じる問題であった。これらの賃借権は、その建物の喪失によって効力を失うと、当時の民法では定められていた。これら2つの問題が企業の足かせになり、雇用契約の解除いわゆる首切りが多く見られたのである。
 これらの問題は、小泉が議論した「暴利取締令」とともに震災後の大きな社会問題であり、政治家・法律家・経済学者をまきこんで論争が行われていた*14。例えば、社会主義者の山川均は、震災救済こそ実は世間で批判をうける「社会主義政策」そのものだとし、私有財産制の制限を復興政策として主張した。具体的には、都市計画のための土地国有化、火災保険金問題の解決を商工業者が有利なようにするための契約内容の変更である*15
 福田の主張も山川と同様に、私有財産制の制限という点からでは同じだった*16。福田は『生存権擁護令』を公布し、政府は私法の一部モラトリアムを断行すべきであると説いた。
「其の規定は、『政府は此度の震災によって危殆に置かれたる人民の生存を擁護するに必要と認めたる条項に限り、現行法律の適用を来何年何月何日まで停止し、之に代るべき命令を発することを得』とし所有権及其派生諸権と債権、就中契約に関する事項中、罹災民の生存を擁護するに不適当と認めたる条項の効力を一時停止し、之に代るべき法規を命令として発すべきである」 。
 火災保険の免責特約条項の停止を行い、その保険金で民間の企業復興の一助にすること、さらにこれらと連動して雇用契約の解除の一時停止を行うことなどが含まれていた*17
 また賃借権の消滅に関する条項の一時停止の主張は、「人間にふさわしい住居の要求」である「居住権」Wohnungsrechtの要求をも含んでいた。
 あたりまえの人間から見れば、「土地家屋の貸借は居住若しくは営業本拠(Leben=oder Erwerbsstandort)の賃借である。土地や家屋は其形態たるに過ぎない。其の実質を名けて『生存(又は営業)本拠権』((Leben)=(Erwebs)standortsrecht)略して『居住権』Wohnungsrechtと云はんと欲する。居住権は建物の焼失と共に焼け去るものではない。火に焼けず雨に流されざる堅固なる無形なる人間本来固有の権利である」 。
 ここに福田の「厚生の経済学」の最終目的ともいえる人間の価値の実現の可能性が明らかにされているように思われる。注意すべきは、ここでの居住権の確保を含めた震災対策=失業対策が、先の図表3のb、c領域の境遇にあるものを、政府による私権の制限によって初期配分としてa領域にもっていくという意図で主張されたことである*18
 とすれば、震災下の異常な状況ではあっても、この「復興の経済学」とはまさしく、実際の資本主義経済(流通経済)をどのようにして「厚生の経済」へ「新旧代替転置」するかのひとつの具体的な選択肢を提示したものといえるのではないだろうか。その意味で、福田の『生存権擁護令』の主張は、彼の「生存権の社会政策」とまさしく言葉に上だけでなく実質においても一致し連続するものであるといえよう*19
 震災で罹災したバラック住いの住民たちに「生存肯定力の薄弱化」をみ、それが労働契約の自由の欠如に基づくb領域の失業のみならず、潜在的な労働提供能力の欠如による失業(c領域)を原因とすると福田は解釈した。この両方の失業こそ人間性の堕落を生み、さらにその事態への反省が「厚生の経済」への要求を生む、と福田は述べたのである。

(抜粋終わり)

*1:小泉は震災当時、鎌倉の私邸にいた。地震のため停電した住居で、数日をかけてピグーの『厚生経済学』を読破し、その要旨を小泉信三(1923)「社会政策の経済原理ーPigou, The Economics of Welfareを読むー」(『小泉信三全集』第 巻所収)にまとめた。小泉はピグーの著書を、「今回の大災に際して当に先ず読むべき経済学書の一つ」としている

*2:小泉は同僚の堀江帰一と始めた調査を、慶応義塾の次期塾長擁立の根回しやテニスコート開きや歌舞伎見学に時間をとられてやめてしまった。今村武雄(1987)『小泉信三伝』文芸春秋社114頁以下を参照。

*3:福田のこの江戸的なるもの、あるいは旧来の事物の復興への批判は、福田の生涯の友といえる関一の主張とクロスするものである。芝村篤樹(1989)『関一--都市思想のパイオニア--』松籟社)によると関は大阪市長就任前の講演会において、マーシャルの『産業と交易』の主張を敷延して、従来の東京の都市計画は、「明治文明ノ精華タル東京」を生みだした。それが今回の震災で崩壊したことは、いかに「明治文明ハ『いかさま』文明」であったことかを示すとのべた。その上で、『いかさま』の原因を国家主導の軍事的膨張にあるとし、これからの脱却を今回の震災を機に図らねばならないとした。具体的には、マーシャルがイギリス経済に関して述べたように、資源の乏しい産業立国では、まずなによりも「大胆ニシテ思慮」ある「企業家」の養成が国家の発展に重要であるとした。

*4:福田もそして小泉もそうであるが、震災をそれまでの悪弊のなせるわざとし(地震天鑓論)とし、かえって窮状を奇貨として世直しを図る(世直りへの予兆論)というこの構図は、大震災後日本において広くみられたことである。そして、外岡英俊(1997)『地震と社会・上』みすず書房)によれば、このような天鑓論は、朝鮮人・中国人などの異民族虐殺などにつながる民族主義の露呈をともなっていたとする。

*5:失業者を11万人、その扶養する家族を30万6千人。転業者を9万2千人、新求職者を5万5千人とし、転業者と新求職者の扶養する家族を40万人に計上した。この約70万人に「営生の機会」を与えることが第1の目的であると福田はのべる。

*6:失業者調査に特化してはいないが、いわゆる貧困調査の日本における先駆者として、高野岩三郎の大学院時代の統計調査を挙げることができる。また福田の調査以前にも東京市が震災直前に行った調査が存在し、福田も震災後の状況と比較するために利用している。

*7:中山伊知郎(1973)「福田博士と統計学」『中山伊知郎全集第2巻』講談社所収、によれば、福田の統計学の体系は、ドイツの統計家G.マイヤーの体系に近似している。マイヤーは、統計学を理論的総論、人口統計、社会統計に区分した。福田は、理論的総合、生存民勢学(人口の静態・動態の分析)、経済民勢学、社会民勢学に分けている。中山によれば、生存民勢学はマイヤーの人口分析に、そして社会民勢学は、同じく社会統計に該当するという。

*8:ここでいう「経済地理」とは、職業分布を指す。

*9:福田は職業別にみると、商業従事者よりも工業従事者の失業が多いとする。また性別の非対称性にも注目し、女性の失業が男性の二倍強であり、女性休職者に主張紹介の制度が必要であると主張してもいる(福田(1924))。

*10:福田はあわせて「失職業者」と名付けてもいいとしている。

*11:c点にあるものは、労働ができない幼年者、老人、病人だけでなく、ここでのケースのように震災で働くべき職業や産業自体が消滅したものを含めて、福田は考慮している。いわば、このc点にあるものは、労働の提供がさまざまな事情から不可能であるものに該当する、と考えればいい。

*12:ただこの「雇用のミスマッチ」についての政府の介入手段として職業教育の提供という処方は、福田の中でほとんど重要性をもっていないことは注目すべきことだろう。

*13:とわるまでもないが、「平時」の失業(主にb領域の人)の原因は、先にも述べたように雇用契約の自由が欠如していることである。この雇用契約自由の欠如も、ここにいう「私的な契約の瑕疵」に含まれるだろう。この点を考慮すれば福田は震災下の失業問題を、平時でもあてはまるものと理解していたと思われる。

*14:これらの論争については、本書では深くふれない。ただ法学者の牧野英一は福田と一見すると類似する「生存権」の観点から問題を検討していた。ただかれの見解は、福田と異なりウルトラ国家有機体説というものに支えられていた。詳しくは、中村睦男・永井憲一(1989)『生存権・教育権』法律文化社参照

*15:山川均(1923)「復興問題と社会主義政策」(『山川均全集』第5巻所収、勁草書房)。

*16:山川の主張の基本線は、社会主義政策がなんら一般の危惧するものではないことを知らしめることを目的としていた点にあったし、さらに震災下における大杉栄らの虐殺にみられるような社会主義者への一般大衆の風評や悪意に対する批判、また社会主義攻撃をしながら、実は社会主義的な政策をとっているとして、官憲へ皮肉をこめているなど、そのような当局への非難がこの論述には見え隠れするように思われる。また私有財産制の制限を主張してはいるが、もちろん山川の本旨は体制そのものの変換であり、福田とは決定的にその点で異なることはいうまでもない。

*17:福田はほかにも政府による補助金政策を主張した。火災保険問題については、保険会社の国営化が福田の最終的な目的であった。そして清浦内閣の「借地借家臨時処理法」(大正13年8月15日)で一応の実現をみたと、福田自身述べている。

*18:c領域にある「失業者」はa領域に初期配分が変更されても、資本家との交渉によって最適な配分を実現することができない。なぜなら「失業者」の労働は回復不可能な状況にあることには変化がないかれである。そのため政府の初期配分の変更だけがc領域の「失業者」の厚生を改善する唯一つの方策となる。

*19:福田はいわゆる「極窮権」の発動で事態を解決することは望まなかった。「極窮権」とは、生存の脅威にさらされた時に、その生存の維持に必要な有形無形のものを収用する超法規的な権利のことである。米騒動が起きた直後に、福田はそれを「極窮権」の発動として騒動を弁護したが、その後見解をあらため、そのような封建的な遺制にたよるのではなく、あくまでも「私法の公法化」という手段で解決すべきであるとする立場に移行した。