キム・ギドク『悲夢』

 いままでの作品(といってもまだ観てないのが3作あるが)の中では最も難解に思える。物語の詳細は端折るが、別れた女に未練をもつ男(オダギリ・ジョー)、そして別れた男に二度と会いたくないと思っている女(イ・ナヨン)。この二人はまったく他人でもあるにもかかわらず、男の夢を女が夢遊病者となり実行する。

 お互いの別れた相手もキーになっていて、いまは別れたもの同士が付き合っている。この(夢見男と夢遊病女からそれぞれ別れた)男女が情愛を交わしている場に、何度も夢遊病になった女(イ…夢の中ではオダギリ自身)が復讐に訪れる出来事を反復することに物語のかなりの時間が費やされている。

 女の夢遊病を救うために、オダギリはノミで頭はつつくは、目をテープで開いたり変顔つくって寝ない努力をする。ここらへんの寝ない格闘が、あまり出来が良くなく、ユーモア(変な顔)と残酷(ノミなどで身体を突く)が、少しも面白くも怖くもない。むしろそこはかとない奇怪さは、オダギリが日本語を、イ・ナヨンら韓国の俳優陣が韓国語を話す、言葉の二重構造である。これは面白い試みなのだが、全編にこの物語が実は夢ではないか、という疑いを常に観客に与えるには十分な役割を果たしている。

 その観客の疑念をいくたびか壊すのが、たぶん前記した変な顔や残酷な生生しいシーンなのだろう。この映画に描かれているのはあくまで現実(寝ないように苦しむ変な顔のオダギリ)と夢(オダギリの夢を実行するイ)の二重構造であると。そういった観客の二重構造への期待は、ラストの「胡蝶の夢」のモチーフによってとりあえずは止揚されている。wikipediaから引用しておくが(笑)、「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」。これはあまりよくできていないオチになってしまっている。

 キム・ギドクの「こころの清算主義」というべき視点は健在である。現実の意識と夢という潜在意識で繰り広げられる愛の諸相を徹底的に清算することで、何か異なるアルファ(ここでは胡蝶)に結実することを彼は示唆しているようだ。

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