ニューアカと僕(笑)

 へんなコメントがあったけども「爆裂捨てコメント」なので削除したが、ちょっと昔話を書きたい気分なので以下関連して。

 3,4年前に『構造と力』を始めて読んだ 笑。『逃走論』はいま読むために脇に積読状態。中沢新一の本は読んだことない。たしか論文でゲーム機関係のを立ち読みした記憶がある程度。柄谷行人三木清研究をするために何冊か読んだけど結局参照しなかったなあ、そういえば。そもそもニューアカブームとかいうけれどもそんなのごく一部の人しか関心なかったよ、当時。それがなんかどこかで神話みたくオーバーに宣伝されちゃって踊らされてる人やいまでもそのときの病気の影響で苦しんでる人がネットとかリアルでも徘徊してるんだよね。ニューアカを当時読んでいてそれに影響されて人たちを思い出すと、学問や学問の制度への過剰な批判(その裏返しの強烈な憧憬)に汚染されてたと思う。それって旧来アカデミズムへのコンプレックスの裏返しなのかもしれないね。だからニューアカ周辺の人って、これまた例の中沢新一登用問題とでもいう東大のイザコザ(これ2,3年前に村上泰亮著作集や西部氏の本ではじめて知った程度。当時聞いたことあるかなあ、このニュース?憶えてない)にこだわってしまうんじゃないだろうか? あんまり生産性ないので深く考えたこともないけれどもw。

 繰り返すけれども、ニューアカブームとか過大に宣伝されすぎ。最近のバブル文化論再考みたいな流れで、また脚光を浴びているかもしれないけれども、たとえば当時だと『朝日ジャーナル』(読んだことねえ 笑)だけみて時代語るのと同じでしょう。それだと少なくとも同時代分析として偏りまくり。『朝日ジャーナル』も『世界』もとっくに80年代前半で若いのはそんなの読まなくなってたよ。読んでたやつはかたよった就職傾向のためか、時代遅れのやつ。それがなぜかいまは時代を語るのに『朝日ジャーナル』の神々特集が使いまわしされているわけで。意味わからん。

 ニューアカと僕のただひとつのリアルな接点は、80年代前半のどこかで、まだ西武ブックセンターがビルの上の方にあった時代に、ポパーやカルナップの翻訳をさがしていたら、なんか原書が一書におかれていて、その関連でたぶん記号論理学関連の在庫を店員さんに質問したと思う。その質問した相手はいま考えてみると、今泉正光氏じゃないかな? 彼は当時まだ原書でしかなかった『ゲーデルエッシャー、バッハ』の原書を、これはすごく面白いので読んでみてはどうでしょ? とすすめてくれた。そういう書店員からの接触はいまも昔もほとんどない(古書店や英書店はあるよ)のですごくよく憶えている。確かに面白そうな本だったので少し考えてその場で買いましたよ。高かったけれども 笑。彼としては営業努力が実を結んだし、僕はそのときでは一段かに二段くらい上のレベルの英語を読むきっかけになったので幸いだね。それがニューアカ(≒今泉氏の当時の企ても入るでしょ?)と僕の接点かな。