掲示板・ブログ文化の終焉とケータイ

 最近はPCではブログのエントリーと90%以上は英語圏の経済ブログのチェックそして関連文書(PDFの印刷など)が中心。日本のサイトはアンテナにあるのに加えて、ほぼ携帯中心の使用。まあ、あまり携帯とかPCとかで意識してわけるつもりはないけれども、岡田・モリタク本で、岡田斗司夫氏が「30代のPC利用によるケータイ文化への乗り遅れ、PC=ブログ文化のスラム化」みたいなことをいっていたが、それはどうかな、と思う。

 もちろん日本の状況はかなり岡田仮説に適合している気もするのは確か。すでに僕もネットの経済学で書いたように掲示板文化(なんかネットで議論する文化)は終焉、さらにブログの方も『m9』やこのブログでも書いたけれどもアルファブロガーを中心にすざまじくひどい経済観をデンパしているのに呆れるというよりも飽きてきた(最近は複素経済学すらもまともにできない連中にがっくり) 笑。そしてそれがpollarizationとでもいう現象をもたらしているように思え、それが岡田氏のいう「スラム化」なんだと思う。


 しかし他方で、冒頭にも書いたように、アメリカの経済系ブログは、さすがにコメント欄はほとんど読まないのだが(アメリカも例外ではなくあまり有益なコメントのやりとりはない。マンキュー先生のコメ欄閉鎖事件がその象徴)、それでも情報や分析のネタとしては論文読むよりも面白いものが多い。もちろん論文自体の情報もあり、そのソースのほとんどがpdf文章化されている。これをケータイで見るのは無理かできてもコストが大きい。だから経済系の人が広義のネット文化を享受するには、PC文化もケータイ文化もただたんにそのときの経済的計算の結果選択しているにすぎない。


 ちょっと横道にそれるが、「PC文化もケータイ文化もただたんにそのときの経済的計算の結果選択しているにすぎない」と書いたのだが、これは結構、岡田氏とモリタク先生のオタク観の相違、ひいては岡田氏の『オタクはすでに死んでいる』を読んだときの閉塞感とでもいうべきものに通じる。


 下で紹介したこのふたりの本でも、モリタク先生は萌えを二次元だけでなく、三次元でも、生身でも萌えられるのが人間=オタク という定義。そのときどきの制約の下で最適に選択しているにすぎない。それに対して岡田氏は彼の昔は生きてたオタク(異なる嗜好への無関心的な理解)といまの「オタク」(異なる嗜好への積極的拒否、原理主義的、本田透は二次元以外に萌えを禁ずるなどの態度に象徴)を対比させすぎているように思える。結果的には岡田氏の立ち位置そのものが、スラム化を促しているPollarizationそのものの現象に思える。結局は、オタクという概念に岡田氏ほどみんなは(モリタク先生含めて)そんなに思い入れはないのである。そしてなくてもまったくいままでもこれからも無問題なのである。

 横道にそれたままでなんか続き書く気がしなくなったのでここまでということで 笑。