複素経済学、反経済学、ビオ経済学、進化政治経済学、など等


 上のエントリー題名にあげた「経済学」に心酔しちゃいそうな人は、例えば安冨歩『生きるための経済学』新古典派経済学批判のところだけを速攻で読んで、上のエントリー題名に関わる人たちの大枠の思考を確認して(econ-economeさんの安冨本書評でも代替可能http://d.hatena.ne.jp/econ-econome/20080425/p1 ただし認証パズルになったわけですが 笑)、そのあとに下のクルーグマンの2つの論説を読めば、解毒としては必要十分でしょうね。


http://cruel.org/krugman/evolutej.html

http://cruel.org/krugman/biobabblej.html


 それとビオ経済学の思想的基礎(?)のH.フィンガレットやらに魅かれた人は、簡単にいうと広義の両立主義(wikipediaを参照するといいと思いますよ)に入る人みたいだから、まさにデネット、フランクファート、エインズリーの本を読んだ方が経済学をやる人は得るものが多いでしょうね。クルーグマン流にいえば、ビオ済学を普通にやっているのが実はネクロ経済学だったんですよ 笑)。


孔子―聖としての世俗者 (平凡社ライブラリー)

孔子―聖としての世俗者 (平凡社ライブラリー)

 ところで経済学の「道具主義」(=ミルトン・フリードマンの経済学は「あたかも」ビリヤードの玉突きの軌道計算を合理的にする人と同じ)を批判して、安冨さんや塩沢さんたちは、このビリヤードの玉の軌道を方程式で解くことは時間がえらいかかるので、事実上光速を超えないと計算尽くすのは無理なのにそれが無理じゃないと経済学者たちは期待している。しかしそもそも光の速さを超えるのは不可能、不可能なことを出来るかのように装う「嘘」は経済学の「自己欺瞞」を表している、とかいう経済学批判をいわれても。

 ビリヤードの玉を突く人に光速を超えることを期待して経済学をやっている人はほとんどいないでしょう(稀にモデル=現実とガチンコで考える人がいますが、それは個人的性向じゃないですかね? あるいはマンキューいうところの経済学者におけるエンジニアと科学者との違いはあるかもですが)。この点こそクルーグマンが最初の進化経済学批判の論説でいっていることでしょう。


 レビットがここで書いているように、フリードマンの「あたかも」論は、実はアカロフ(完全合理性ではなくちょっと合理性からはずれるとどうなるかを考えた人。アカロフについてもクルーグマンのここを参照)と同じように、モデル=現実とは考えていない、practicalな経済学者だったのだ、と(この認識はその昔、僕もここhttp://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20070319#p1で書いてます)。


 経済学のモデルは、クルーグマンがいうところの便利なメタファーでしかなく、(少なくともエンジニア系の)経済学者はみんなそれを認識しているから、安冨さん風の「自己欺瞞」ではないわけです。むしろいろんな道具があってそれでいろんな便利なことができる。ただひとつの世界=道具しかないと考えるような単一の私(これが事実上、複素経済学系の人たちが知らずに陥っている隘路でしょう)ではなく、いろんな世界=いろんな道具=いろんな私の可能性 をみせてくれるのが、経済学のいいところだ、というのが、たとえば最近のT.コウェンやカプランなんかのメッセージでしょう。もちろん経済学的な思惟がいつも必ず多様な私を可能にしているわけではないし、コウェンやカプランも民主主義(小田中直樹さんが今度書くらしい投票なんか)のシステムでは自己欺瞞的な状況に陥ってしまう可能性を示しているわけです。