ベイジアン合理性がアカデミックの共通規範か?


 モーニング娘。経済学エントリーで、議論が混乱するので何もコメントしなかった興味深い話題なんですが*1。yyasudaさんは「アカデミックの文脈」ではベイジアン合理性が合理性理解の共通理解であるといわれてます。まあ、僕は「アカデミックの文脈」にはどうも入らないようで、これだけが(僕のみたアカデミックな文脈ででもそうですが)合理性だとは思えないんです。


yyasudaさんの発言(とてもわかりやすい)
:合理性に関しては、(アカデミックな文脈では)ほぼ例外なく「ベイジアン合理性」が用いられています。これは「起こりうる将来の結果を全て列挙し(不確実性が存在する場合にはそれらの間に確率分布を割り振り)、もっとも自分にとって望ましい選択肢を選ぶ」というものです。経済学でお馴染みの「消費者の効用最大化」や「企業の利潤最大化」はこのベイジアン合理性を満たす意思決定として理解することができます。

>米倉凉子と原幹恵がセット販売できたら消費者余剰200円分が生産者の懐に入ることにしましょう。にもかかわらず、オスカーはつんくほどの才覚がないために、それをみすみす見逃しているとしましょう。

この場合、アカデミックな言い回しで言うと
・オスカーは「利潤最大化を行っていない」ため合理的でない(不合理):


 まず合理性の問題をモーニング娘。の経済学エントリーの最初の設例に導入することにします。つまり売り手の行動規範を指定することを認める議論をします。この場合、利潤最大化を行わない=ユニット販売をせずに単体売りをする「バカ」を行う、ことも合理的になる場合があります。なぜならこの販売者は消費者のためにわざわざ自分の利益を放棄することが目的かもしれないからです。その場合、「バカ」な行為自体は合理的となります*2


 こういう合理性の理解がいまの経済学者一般が採用するところではない、というのはやや意外だったのですが、(僕のさまざまな本で援用している)ロバート・フランクの『オデッセウスの鎖(原題:Passions within Reason)からの引用です。


「合理性についての定義は、合理性について論じた人の数だけあるようだ。多くの著者は(たとえばハルサーニ、1977)、与えられた目的(それが自己破滅的な目的であるとしても)を追求する際の有効な方法として定義している。この基準によると、もっとも血生臭い一族の戦いでさえ合理的だと呼ぶことができるだろう(挑発に対する反撃しか頭にないとすれば)」。


 フランク自体は合理性を「自己利益追求」に等しいとみなしています。これはおそらくyyasudaさんのいわれる合理性の理解に近いでしょう。もっともフランクはこれを批判対象にするわけですが(そして誤解をおそれな…いやおそれながらいうと 笑)自己利益追求=合理性 では扱えないコミットメント問題を解くために感情の役割を重視することで、別の次元の「自己利益」モデルを構築しているといえます*3。例えばフランクは得する機会があっても消費者の「お得感」を残す判断が長期的にはその企業の利益になるかもしれない(企業が長期的な自己利益を目的にしているのではなく、まさに「バカ」行為をすること自体が目的で、長期的な「自己利益」は副産物にしかすぎないのでしょう)ことを指摘しています。

整理すると、「バカ」行為は、

1 ベイジアン合理性(自己利益追求)では、バカ=不合理
2 ハーサニー(1977)では、バカ=合理 にもなる
3 フランクでは、バカは不合理だが、副産物で自己利益をもたらすことがある(その副産物みて合理的というかどうかは論者の好み次第)

 まあ、理解してないところがあるかもしれませんがとりあえずまとめました*4


 ご参考に。以下の岡田章氏の論文は経済学史学会の学会誌に掲載されたもので、この論文にもベイジアン合理性についてのコメントが最後部にありますので参考まで。

http://www.econ.hit-u.ac.jp/~kenkyu/jpn/pub/2007/pdf/07-01aokada.pdf

*1:ただでさえ、経済系ブログの狂言まわしfhvbwxさんにブログでの議論がむかないとからかわれてますので 笑

*2:僕の設定にこのバカ=合理的を仮定するとパレート効率性を満たすかもしれません。独占力を行使して!完全競争と同じ水準の価格と販売量を提供するかもしれません

*3:自己利益「追求」でもなければ、自己利益追求=合理性でもないことに注意

*4:これも山形さんの問いがわからないので無視すればいいだけなのですが、「つんくほどの才覚」がないことをバカの理由にしてますので、そのときはyyasudaさんも僕の議論も関係なく、合理・不合理の問題ではなく、単なる実現可能性集合につんく戦略が含まれていないだけだと思われます。今日のエントリーではこれには目を塞いで、実現できるがやらないことを選ぶのをバカとして考えてあります。またこれは違う疑問点なんですが、ハーサニーはベイジアン型の期待効用を採用しているらしいことは思想史ではよく語られているところです。ですので利潤最大化ではない行為=バカをすることもひょっとしたらベイジアン合理性をみたすのではないか、という点が個人的に未確認です。もしベイジアン合理性でもバカが合理的ならば、yyasudaさんの発言との整合性が気になります