bewaad氏の批判


 なぜか今日だけは読める(前も書いたけれども数ヶ月、bewaadブログを読めなかった。アンテナで一部分みれるだけ)。しかも僕らの共著へのご批判がタイムリーに。これはなぜ? 笑。

http://bewaad.com/2007/09/24/280/


 僕はbewaad氏の批判は建設的なものだと思います。コメント欄に書きたいのですが、上にも書いたようにコメント欄に書いたままそれ以降、また見ることができないと困るのでここに書きます。bewaadさんももしこのエントリー読まれて再反論あるときはこちらで書いていただけると助かります。そちらが読めない可能性が大きいので。


 まず浅田論文への批判が意味がよくわからなく、むしろかなりアンフェアな扱いだと思いました。


 IS-LM分析とそれが理論的に含意していることへの実践的な支持は学界でも「共通な知見」としても言いように思えます(本書では「」つきで書いているいることにも注意)。そして本章では、IS-LMは実践的な意味でももういらない、と主張する齋藤氏らのグループの主張を一つひとつ丁寧に、つまり論理的根拠を明示して書いているものです。したがってbewaad氏の書いている浅田論文への批判箇所、


:他方で、本章においてまさに批判の俎上にある岩本(康志)先生、大竹(文雄)先生、齊藤(誠)先生、二神(孝一)先生や、直接の批判対象にはなっていませんが本章の議論が妥当するならば必然的に似非経済学認定とならざるを得ない、林文夫先生や宮川努先生といったサプライサイド論者や、与謝野官房長官の理論的指導者青木昌彦先生といった方々が、誤りを認めて転向したという話は聞きませんし、誤りを認めないがゆえに経済学界において際物扱いされているという話も聞きません。:

での「直接の批判対象」以下をまさに批判対象にはしていませんから(浅田論説はかなり批判対象を具体的かつ限定した批判を行っています)、単にbewaad氏がご自分で勝手な拡大解釈を施しているように思えます。


 しかもそれが浅田論文を齋藤氏ら(さらには批判さえしていないかたがたを含めて)の論説を「際物」「似非経済学認定」扱いしていると誤解を誘発しかねない、と思います。「際物」ではなく「間違っている」、ということを彼らの論議を細かく分析することで彼ら自身からの反論も可能なような枠組みで議論しているからです。そのためこの章はかなり専門性が高く、初心者レベルでの勘違いを避けるためには並行してマクロ経済学の教科書を読んでおいたほうがいいでしょう(なお、その教科書のほとんどには「共通の知見」としてislmが紹介されていますが)。


 できればなぜ本章ではまったくでてこない青木先生ほかへの「本章の議論が妥当するならば必然的に似非経済学認定とならざるを得ない」という「必然的」をbewaad氏が抱いたのか、その点の説明を期待します


 次に浜田論文への批判ですが、bewaad氏の批判は共著論文を含めて本巻にある三本の浜田論説のうち、最後の政策決定の内側をみた一人のインサイダーの「経験」録にあてられています。この箇所は研究論文とはいえず、冒頭に浜田先生が認めているように、インサイダーの公表可能な範囲での経験談だと思います。そのため本章はある意味で過ぎ去った時間という意味から第Ⅱ部「歴史からの照射」に入れられているのだと思います。歴史的証言という意味ですね。そして浜田さん自身のデフレ論争への理論・実証的分析は本書の他の論文やまた参照されている論述の中で書かれているところですし、それは本章の経験談を裏付けるものだと思います。bewaad氏が問題にしている最後の論文のしかも全体(218〜246頁)ではなく最後の数ページが中心で、経験談からの率直な物言いであることが、少なくともbewaad氏の書き方だとわかりません。もちろん他面で浜田経験談が「真実」をどれだけ映し出しているかどうかは検討が必要でしょう。僕はかなり映しているのではないか、と思いますが。


 松尾論文へのご批判は以下の引用すべてを支持します。僕は自分の行った作業とは異なり、実証的な証拠もない経済学・反経済学批判の寓話(bewaad氏のいうところの「物語」)として、松尾論文を僕はみていますが、bewaad氏のご批判(実証的見地からの批判)も他方ではありでしょう。松尾さんご自身がこれから「物語」だけではなく、実証的な分析を積み重ねることで解消していくことで建設的なものになるのではないでしょうか。


:結局のところ、「経済学的発想」vs「反経済学的発想」との対立構造を描くのであれば、それぞれの要件をもっと詰めてからでないと、「反経済学的発想」であるとされた者への単なるレッテル貼りに堕するおそれが多分にあります。上記の思考によって、「リフレ政策支持者は、『経済学的発想』に基づいていると自認する一方で、構造改革支持者を『反経済学的発想』に基づいていると批判するけれども、実はリフレ政策こそが『反経済学的発想』以外の何物でもないんだ」と言われた場合に如何に反論できるのか、それはすなわち「経済学的発想」と「反経済学的発想」とをまぎれなく分かつ基準を打ち立てることでしかないのです。

ちなみに蛇足ながら、イラク戦争について、

しかしこのことは、現実のブッシュ政権によってなされた、あのタイミングでのあの形での、戦争でなければならなかったことを意味しない。現実の戦争は、ブッシュ政権とその周辺の石油資本の特殊利害に、大いにひきずられて遂行されたものである。

p315

というのは陰謀論にしか見えず読み手に論文全体をうさんくさいものと思わせかねず、いかがなものでしょう。反論は単純で、仮に「その周辺の石油資本」がそれほど政権に影響力を持っているなら、最近のブッシュ政権はなぜバイオエタノールを推進しているのでしょう? バイオエタノールの製造・消費過程全体を通じたエネルギ効率は石油に勝てるものではないと(それ自体は、とりわけサトウキビ以外については的確に)指摘し、あのような取組みは即刻中止させることでしょう。その程度のこともできないにもかかわらず、一国を戦争に引きずり込むことが可能だとは・・・。:


 あとこれはひとつの見方ですが、経済学的発想と反経済学的発想を有意にわけるもっとも確実な方法は、本人が「おれは反経済学だ」といっているケースです。ここで注意しておきますが、必ずしも「反経済学」=批判すべきもの というのとは別な論証であるし、ましてやいってる本人はそんなことを意図していない=肯定的な意味でいっているのは明白ですが。

 この意味で、自ら「反経済学」である、という趣旨のことをいう人はかなり多く、日本だけでも僕が今回扱った三木清笠信太郎はそうですし、金子勝・塩沢氏ら何人もあげることができるでしょう。