中原中也生誕100年を私的に祝う


 中原中也。僕はこの詩人の名前を思い出すたびに、この詩人の弟である中原思郎さんのことを懐かしく思い出す。


 いまから30年近く前のことであるが、当時、高校の部活動の関係で中原中也の研究をしなくてはならなくなった。当時の部活動の多数派であった腐女子たちは中原中也が大好きだったのである。僕はジャン・ジュネを推したのだが敗れた。無念である。


 そんなわけで秋の文化祭の展示のために、祖父母が山口県にいる、というただそのことを理由に、僕はひとり中原中也の郷里を目指したのである。


ゆあーん、ゆよーん、ゆあゆよん


 さて中也の生家は山口県湯田市にある。昭和54年の夏。降り立ったその駅の印象はもう残っていない。それよりもなんで僕は中也の生家を知っていたのだろうか? もちろん当時はインターネットなどはなく、全集かなにかに住所でも記載されていたのを調べだしたのか。どうも記憶が曖昧だ。しかもいきなりアポなしで訪問するなど通用すると僕は本当に考えていたのだろうか? 


 途中、中也の詩碑が建立されている小さな公園によった。空はどんよりしていて、公園には人気は少なかった。詩碑には何の詩が書かれていたのだろうか? 検索すればわかるがいまはしないでおく。


 公園から少し歩いた閑静な路地に面した日本家屋が中原中也の実家である。稼業は医院であったと思うが、その当時まだ開業していたのだろうか?


 アポなしでの来訪の意をインターホンかなにかで伝えると、玄関から小柄な老人がでてきた。「遠いところからきたね、あがんなさい」と優しくこの無礼な若輩者を招きいれてくれた。この小柄で優しげな老人こそ中也の弟の中原思郎さんだった。職業は医師。しかし著名は文学者でもあった。


 なにを僕は質問したんだろうか? とりあえず腐女子たちに頼まれた質問をした気がするだけで、僕自身の発言が一切記憶から抜け落ちてしまっている。反対に記憶に残るのは、思郎さんがとても優しく、世話好きな方だったことだ。お昼を少しすぎていたが、まだ食事をしていない、と聞くとかつ丼でもたべようか? と注文していただいた。


ふたりでカツどんを食べながら、思郎さんの中也研究の書である『中原中也ノート』を話題にしていろいろ話たのではないか。例えばそこで小林秀雄と中也と長谷川泰子の三角関係の話とか……。


中原中也ノート (1978年)

中原中也ノート (1978年)


 思郎さんは、僕が大学受験をひかえており、文学部志望であることを知って、もし来年大学に入ったらこの人を訪ねるといい、と吉田秀和氏の住所と電話番号を教えてくれた。「一番するどい評論を書く人だから」というのがその理由であった。僕は結局、吉田氏を訪ねることはなかった。なぜなら文学部ではなく政治経済学部に入学してしまい、思郎さんが吉田氏を紹介してくれた理由が失われてしまったからだと思い込んだからだ……いま考えるとバカなことをしたと思う。


 またその時、思郎さんと一緒にフォークソングライター友川かずきさんのレコードを聴いた。当時彼は中也の詩を歌にしていたのだ。


汚れちまった悲しみに なにのぞむなくねがうなく


 ここでも思郎さんは世話好きで、友川さんの人柄をべた褒めし、東京にいるならば(実際には埼玉の川越だが)、友川さんに会ってみたまえ、君と似ているところがある、といったと記憶する。友川さんの中也の楽曲が収録されたレコードと連絡先を書いたメモもいただいた。その後、友川さんには葉書を書いた。すぐに返事がきたのだが、受験勉強に埋没するうちにそれっきりお会いすることなく歳月を経てしまった……もしコンサートでもあれば行きたいものである(そう思って何十年も過ぎたのだが……)。


 思えば僕が生涯の中ではじめたあった文学者であり言葉の正しい意味で「知識人」であった中原思郎さん。中也のこと、ご自身の著作や仕事のこと、そしてさまざまお土産や知人への紹介など、無遠慮にいきなりやってきた山ザルがごとき高校生を相手に貴重な時間を割いていただいた。僕にとっては中也以上に大切な存在であり続けている。


 お会いして三年後、思郎さんはお亡くなりになられた。たった一度の出会いでしかなく、僕自身が若すぎてその心遣いに応えることがまったくできなかったことはいまでも恥ずかしい思い出です*1


そして正体もなく、今茲に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといつて正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持ちをみようとするやうなことはつひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑なで、子供のやうに我儘だつた!




*1:僕と同じような思郎さんとの一期一会を書いたサイトをみつけて驚きました。時代もお会いしたときの年齢も違いますが。http://www.ten-f.com/shirou.html