河上肇のジャーナリズム

 だいぶ前に『東京河上会会報』に掲載したもの。河上の『貧乏物語』を再読する過程で気になって読み返した。細部は直さなくてはいけないけれどもまあこんなものでしょう。万が一引用するときは会報の誤植直した方でお願いします。



河上肇のジャーナリズム

    • 福田徳三との国民経済論争を中心に--

田中 秀臣

1 はじめに

 河上肇は近代日本の経済学者の中でそのスケールの点において、彼の同時代人であった福田徳三と並んで、ほぼ1930年頃までの代表的な存在である。また単なるアカデミズムの住人ではなく、社会に自らの言説を公表し、積極的にジャーナリズム活動を行なったことでも、当時の経済学者の中にあって一頭地を抜いていた。初期(1905(明治38)年から1908(明治41)年まで)におけるジャーナリズム活動としては、『日本経済新誌』(1907(明治40)年創刊、1918(大正8)年終刊、ただし河上の編集・執筆の関与は1913(大正2)年まで)の編集や『読売新聞』での執筆・記者活動、中期(1914(大正3)年から1918(大正7)年まで)では京都大学における『経済論叢』(1915(大正4)年創刊)への関与、さらに『大阪朝日新聞』に連載した『貧乏物語』(1916(大正5)年に連載、翌年公刊)を中心とした各雑誌・新聞などへの投稿群があげられる。また中期から後期(1919(大正8)年以降)にかけては、個人雑誌『社会問題研究』(1919年創刊、1930(昭和5)年--全106冊)を当然中心的なものとしてあげなくてはいけない。
 河上のジャーナリズム活動はいわば、近代における日本の経済ジャーナリズムの歴史をほぼ辿ることになり、テーマもきわめて広大で、論述の内容も多岐にわかれている。
 今回の報告では、河上のジャーナリズム活動の全貌を扱うことには論者の能力と準備を超えているので果たしえない。またすでに河上のジャーナリズム活動については先駆的業績(杉原(1987)、脇村(1976)ら)があり、各メディアにおける事実関係や同時代の背景などはほぼ調査・研究され尽され、新味がないということもある。そこで河上の好敵手である福田徳三との対立を主軸にして、主に河上が初期のジャーナリズム活動で重視した国民経済論争について論点を絞って論述することにする。このテーマについては、論者はすでに田中(2000)を書いているのが、以下は同論文の論点をより簡潔にしたものである。
 河上は東京帝国大学を卒業後、農科大学講師、学習院教授、専修学校や台湾協会専門学校の講師を兼任する一方で、1905年から『読売新聞』の主に「経済欄」に論評を寄稿するようになった。千山万水楼主人名による「社会主義評論」は、無我苑への突然の参加による打ち切りとあいまって、河上の名を世に知らしめる結果となった。
河上は『日本経済新誌』の発行兼編集人を創刊号から受け持ち、そこで数多くの論説を公表した。同誌の創刊号は4000部であり、三井家が出資した。同誌ははじめ井上馨が主導で日銀・正金銀行の機密費利用し、松崎蔵之助、河津邉、古沢滋(貴族院議員)が同人となったが、河上が実質上の実務を行なった。
杉原四郎の評価によれば「経世済民の志をのべるといった明治前期の雑誌の特質をそなえた、おそらく最後のものと思われる」、という性格を同誌はもっていた。河上は誌上においていわゆる「国民経済論争」に関する論説を多く執筆した。他方で河上の論敵である福田徳三も河上ほどではないにせよ、いくつかの日本の国民経済の進路についていくつかの論文を書いていた。
 福田と河上の明治末期における「国民経済」の把握は、どちらも日本経済の現状を、低発展段階にあるものとして捉える点では共通していた。ただ両者では、その低発展の把握の形、特に国民経済の担い手は誰か、担い手たるにはどのような条件をみたすべきか、という諸点で異なっていた。農業部門についていえば、福田は小農の自足経済的性格が障害になり、十分に市場が機能しない状態を問題視した。いいかえれば、国民経済の担い手たる以前に、なぜ小農は経済合理性に足らざるところがあるのか、その封建的性格を問題視していたといえる。他方で河上は、その小農を国民経済の担い手として重視し、教育制度・金融信用制度・産業組合の振興などによって、小農の経済合理性がより一層発揮できるための土俵を整備していくことを主眼とした。また労働市場的角度からとらえると、福田の場合では農業労働者はその属する共同体から離れるインセンティブをもたないと考えられていたが、他方で、河上の場合では農業労働者は期待所得水準のより高い都市へ移動するインセンティブをもつと考えていた。
 一方で、主に都市に存在する商工業部門では、福田は農業と変わらない市場機能(経済合理性)の不完全性を問題にした。また河上も商工業部門には近代的な市場が完備していないことを問題視していた。農業部門に対する見方の違いが、両者の「国民経済論争」上の対立、特に米穀関税と小農保全に対する見解の違いをもたらしたと思われる。
 以下では、この両者の基本的視点の相違を前提にして、日本経済の低発展段階のあり方や、また米穀関税などの政策効果をめぐる両者の対立を論ずる。

2 河上肇の国民経済論--都市と農村へのまなざし--

 明治末期における米穀関税をめぐる論争は、農本論者、自由貿易論者らを中心に幅広い議論を惹起した。その論争の中核には、意識するしないとに関わらず、日本の国民経済をどのような方向性で発展させるかという、今日でいう経済発展論的な観点からの関心が伏在し、単なる短期的な利害による政策論争ではなかった。それは同時に日本の産業構造を、いかに近代的な発展のコースに乗せるかについて、アカデミズム・ジャーナリズム・官界の多様な人材が論争に参加し、それぞれのビジョンを表明した出来事だったといえる。
 よく知られているように、米穀関税の是非を巡っては、主に農本主義者を中核とする関税擁護派の論者と、また他方には、関税撤廃と自由貿易を唱える商工業立国論者がいた。前者の代表は、横井時敬、酒匂常明らであり、後者の代表は、天野為之、堀江帰一、乗竹孝太郎らである。河上肇は、前者に、福田徳三は後者に属すると、当時論争に参加した者たちは理解していた。この両派とは別に、政治的な配慮から農工商併進鼎立論を唱えてはいるものの、基本的には農本主義者であった金井延、桑田熊蔵や政府の政策当事者からなるグループもいた。
 しかし、河上肇は当時思われていたような農本主義者というよりも、農工商併進鼎立論を唱えるユニークな経済発展論者であった。河上肇の農工商併進鼎立論は、繰り返し様々な著作・論説の中に登場しているが、体系的な形で述べたのは、『日本尊農論』(1905)、『日本農政学』(1906)の両著作であろう。前者の「自序」で、河上は、「而して健全なる国民経済の発達は農工商の三者をして能く其の鼎立の勢を保たしむるに在りとは、余輩の確信して疑はざる所なり」と、日本経済の発展についてのヴィジョンを明瞭に述べている①。
 河上の農工商併進鼎立論は、農業を国内産業の中核として、その国際競争力の育成を図ることを最高の目的に設定している。その上で工業と商業の発展を促す貿易戦略を採用していた。「農は本なり、商は末なり」や、「実に農業は工業の一大後援にして商業は其の一大前軍なり」という表現にもその意図は明らかであろう②。
 ではどのような形で農業は、工業や商業の基礎になるのであろうか。ただ商業については、その前近代的な性格が厳しく批判されているだけにとどまっている。実質上、河上の農工商併進鼎立論は、農業と工業の関連を軸に組み立てられているとみなしていい。以下でも河上の立論を主に農業と工業に焦点を絞って論ずることにする。
 河上は農業の国際競争力の確保が、工業の国際競争力の確保にもつながるとしているが、それは次の理由による。
 「曰く、農業は所謂原始産物を生産するを以て本分とするものなり、しかるに原始産物の産出せらるることは、一方に於て国民の生活を安易にし其の購買力を増加し又た労働者の労銀を低廉ならしめ、(もし労銀下落せざれば其の生活を安易ならしめ従って労働の効果を増加せしめ)、他方に於ては工業に要する原料の価格をして廉価ならしむるの影響あり、而して国民購買力の増加は工業品需要の増加となり、賃金及び原料価格の低廉は工業の生産費を減少せしむ。是が故に一国の農業盛にして廉価なる原始産物が多量に生産せらるるの一事は、工業者の為め最も悦ぶべき現象に非らずや」③。
 国内交易をみれば、労働者の購買力の増加を期待できること(この点は河上の例示には不鮮明さが伴うが)、また国際競争力の点でも工業品が低廉になるので輸出にも有利であるとする④。
 このような発展の構図に立つと、米穀関税撤廃による穀価下落とそれに伴う国内農業の衰亡について、河上が断固として異を唱えたことが(彼の論理の上で)理解できる。さらに農業の衰退は都市における貧困を生み出すことでも問題をはらむものであった。
 「勤勉なる農民をして安んじて其の土地の耕作に従事せしめよ。彼等の産業を保護し、彼等の村落を繁栄ならしめ、彼等の農業をして隆盛ならしめよ。若し彼等の従事せる産業を衰退に帰せしめ、彼等をして村落を棄てしめ、彼等をして都会に集住せしめ、彼等を駆って無資無産の放浪者となして工場に出入りせしめ、以て所謂資本家の使役する所に任ぜんか、一部資本家の工業は或いは之によりて一時盛なるを得べく、低廉なる工業品は盛に海外に輸出せられん、而して虚栄に富むの執政者は国威揚がれりと称して之を悦ばん、一部の資本家は之によりて富を成さん」⑤。
 河上は後記するように、農村から都市への労働者の移動を問題にするのだが、その際にも超過供給に陥った労働者が、劣悪な雇用条件の中でいわば「器械の奴隷」に陥っているとした。この引用の後段にあるように、商工業立国論はあくまでも国民の一部の利益にしかならないと河上は考えていた⑥。
 他方で、農業がその生産性の限界(収穫逓減法則の適用)によって一国経済の基盤たりえないとする反論に対して、河上は「地力逓減法」を農業に応用するのは誤りであり、「然り農業は次第に工業化す、農業と工業との間画然たる区別ありと信ずるものは経済社会の実状を誤解するものなり」と再反論している。農業に工業並の生産性の改善を求める立場から、農業経営法の改良、経済教育による企業者精神の涵養の強調、各種の金融・信用制度の完備、特に産業組合による生産改良に河上は期待をかけていた⑦⑧。
 この農業経営や生産方法の改善・合理化の提唱は、衰退産業を保護するという趣旨をもつ農本論者と河上自らの立場の相違を浮き彫りにするためにも必要な論理であった。また国民経済論の枠内でも農産物の価格を低廉にするという主に供給側の事情からの説明において中核をなすものとしても必要であった。それゆえ、米穀関税の維持は、あくまで短期的な政策目標であって、長期的には、農業の国際競争力の獲得に目的がおかれていた。
 「吾人は関税の鉄壁を築きて外敵の侵入を防がんとするものに非ず、吾人は寧ろ此の外敵を競争せんが為め国内に於ける農業の改良進歩を主張するなり」⑨。
 また河上は上記した国民経済論の枠組みによる経済的理由以外にも、『日本尊農論』や『日本農政学』において、経済外的な理由を列挙している。それらは、主に軍事的、衛生的、風俗的理由であった。
 第1の軍事的理由として、農業は強兵の源泉であり、一国の人口増加の源泉であると述べている。また人口を国力(あるいは国富の源泉)と一致してみているので、農村から都市への人口流出が問題視されることになる。
 「(略)田舎に於ける人口の増殖力は都会に於ける人口の増殖力に比して頗る大なるものあるを知るに足るべし、而してこれに実に農業が暗々の間に於て一国国力の基礎たる機能を有する所以なり」⑩。
 次に衛生上の理由であるが、簡約すれば、田舎に住めば長命であるが、都会では短命になることがまず指摘されている。その原因として、都会は空気・用水の利が不備であること、また、商工業の事業自体の性格が心理的なストレスを招きやすいことが挙げられている。さらに河上は経済外的理由とはみなしえない次のような生活上の困窮さえ、この衛生上の理由の中に加えている。
 「多数の労働者は田舎を棄てて都会に集住せり、故に田舎の農業者は年一年労働者の欠乏に苦みつつあり、而して一方を顧みれば、都会に於ける労働者は供給超過の為め其の賃銀必ずしも高からず、頻りに生活難の声を揚げつつあるに非らずや。都会集住の幣夫れ遠からずして一大問題たるに至らん」⑪。
 では、なぜこのように衛生上また生活上の困窮に現に見舞われる都会に人は移動するのか? 
『日本尊農論』では次の四点を指摘している。(1)都会の生活は社会的快楽(例、俳優、芸術家等への就労)を得る機会に富む、(2)立身出世の機会がある、(3)「次に農業は苦み多くして利益多からず、商業の如きは失敗の恐れ多しと雖、幸福に乗ずる時は労少なくして巨万の富を成し得る望あり。思ふに我が国民は確実なる利益よりも、不確実にして大なる利益に走るの情甚し」⑫、(4)「而して農業にありては其の労働者を必要とすること不規則にして時期に従って相違あり。普通冬期に於ては所謂自由労働者(年期雇に非らざる者)は多くは解雇せられて、其の収入の途を絶たるるを常とするが如きも亦た農業労働者の欠乏する第四因たり」⑬。これに加えて、『日本農政学』や他の論稿「何故に人は田舎を去るか」、「人口は滔々として都会に流出す」では、群居生活を好むこと、芸術などからの精神的利益の享受の機会、都会生活の自由の可能性が大きいことなどが挙げられている。総じていえば、都市への人口移動を促す最大の要因は、農村に比較しての、都会での期待(実現ではないところに注意されたい)所得の高さによるものであることが確認できる。
 ところで、人口の大きさを国力と等しいと見做す観点から、その減少を促す都市への人口移動はまさに国民経済的観点からは到底認められる現象ではなかった。問題は、このような都市への人口移動を促進する政策や人為的制度をいかに抑制もしくは撤廃するかに、河上の国民経済政策が最も重要な力点を置いたことである。この点への注目が従来の研究では不十分であったし、また都市と農村の経済論理的な面からの連関を正しく把握することができていなかったように思われる。ただ本稿では河上の経済学的含意を詳細に取り上げることはしない。関心のある読者は田中(2000)を参照されたい。
 河上の場合では、都市の方が農村よりも(期待)所得が高い、すなわちその一部である(期待)賃金水準などが高いものと設定されている。他方で、農村の労働移動を立ち入って見ると、近代になって、強制的に農業に従事する必要がなくなっていることを指摘している。つまり農業者は土地に縛られずに、移動の自由が確保された、と河上は認識していた⑭。「しからば、何が故に労働者をして自由を得るならば、農業に従事せざるに至るや」と述べて、先ほどの都市への移動の理由を列挙するのである。すなわち農業労働者は「自由労働者」としての地位にあると考えられていたわけである⑮。
 だが、移動の自由を持った農業労働者が、都会に行ってもそこでは、期待所得の実現をみることはない。なぜなら、雇用は固定した数で決まっており(労働の超過供給の存在を再度想起されたい)、期待を裏切られた流民は、期待所得よりも圧倒的に低い条件でまさに「器械の奴隷」としての就業を余儀なくされる。
 このような河上の国民経済論は、今日の労働移動モデルの先駆、あるいは都市型の貧困問題を解きうる理論として意義づけることができよう。
 この都市と農村の労働移動論の中でこそ、河上がなぜ米穀関税保全の論を展開したのかがわかる。河上は海外から安価な米を輸入すると、日本産の米価も下落し、それが国民経済に最大の損失を与えることを執拗に警告した。その上で、関税制度の維持を説いている。関税すると米価が騰貴すると主張する保護関税反対論者に対して、河上は「必ずしも常に穀価の騰貴を来すものにあらざる」と各国のデータを例として反論したり、また米価騰貴ではなく、むしろ「急激なる下落を予防するの力」があると、関税制度が米価安定の効果を持つとも述べている。またさらに興味深いのは、河上が繰り返し、たとえ、米穀関税によって米価が騰貴してもそれは国民経済上の利益を損なわないと述べていることである⑯。
 都会の貨幣賃金が一定ではあっても、実質賃金は物価の高低によって上下動する。河上は『日本尊農論』と『日本農政学』においては、米穀価格の廉価が工業品の廉価になると説いているのだから、少なくとも国民経済論の枠内では、米穀価格は一般物価水準に影響を与えると思われる。その前提に立てば、米穀価格が関税撤廃で下落すれば、都市の実質賃金水準は騰貴し、さらに農村からの人口流入を喚起する可能性が生ずる。また反対に、米穀価格が関税の保全で上昇すれば(あるいは一定であれば)、実質賃金は下落(一定)するので、農村からの人口流入を抑制する(あるいは現状を維持する)効果がある。それゆえ、農村から都市への労働移動論を前提とした場合、米穀関税保全こそ覆すことができない国民経済の生命線として捉えられるのである。

3 福田徳三の高賃金経済論と米穀関税・小農保護撤廃論

 福田徳三が、河上肇と米穀関税について正面から論争したのは、河上の論説「輸入米の課税に就きて」(明治38年12月2日、『読売新聞』)を契機とする。河上はその論説の中で、「渡辺子爵、大隈伯爵、福田博士、天野博士、大島男爵、前島男爵、河津学士、乗竹孝太郎氏、渋沢男爵、高野博士」らの「斯税全廃論」者の中に入れて、かれらの主張を論難した。その主張の要点は、(1)関税が穀価の騰貴にただちに結びつくとは限らないこと、(2)穀価騰貴が、労銀の騰貴に結びつかないこと、の二点を主軸に、その主張の背後に、国民経済的な観点からの農業保全を主張する内容であった。
 この河上の論説に対して、福田は、同じ読売新聞紙上に、論説「河上肇君の所論を読みて」(明治38年12月5日)を寄稿して反論した。その主張の内容は、(1)関税のない国とある国では、穀価は必ず前者の方が高いことを例示し、河上に反論する一方で、(2)「米価と労銀とは其高低を同ふするものにあらず」という主張については、原則同意している。その上で、「米穀輸入税は其苦痛を与ふこと殊に甚だしきもの」だから廃止するべきであると主張している。福田の(2)における河上への支持よりも、(1)における不利益への注目が、この論説の範囲内での廃止論を特徴づけることになる。そして、河上が「廃止論者の中堅とならるる日の甚だ遠からざる可き」を信じていると論を結んでいる。
 福田の反論に対する再反論は、『読売新聞』(明治38年12月8日)に掲載された「福田博士に答ふ」で行われた。その主張は、最初の論説の繰り返しであり、福田の例示したデータに該当するものは、『日本農政学』に記載され、それを承知した上での立論であったことが述べられている。それ以外は、この論争自体が、両者の国民経済に関する展望に踏み込んでいないこともあり、上記の個々の論点は深く掘り下げられることなく終っている。
 この河上-福田論争が、当事者の意識の上では、単なる米穀関税の撤廃か存続か、という二元的論理の枠内で終始してしまったことは残念であった。その直接の理由としては、この河上と福田の論争の前に、同じ『読売新聞』紙上で、横井時敬と福田徳三の間で、やはり米穀関税の存否を巡ってのやりとりがあったことが止目される。河上が最初の論説で、「横井時敬氏の驥尾に附して」とことわって論を展開してしまったことが、河上と横井との国民経済への見通しの違いを、かえって不鮮明なものにし、福田との論争を、単なる米穀関税の存否(いいかえれば、通常の農本主義者と自由貿易主義者との論争)の次元に留まらせてしまったのではないだろうか。もちろん福田は、横井とは異なる河上の経済論理的な思考に十分注目しているのもかかわらず、かえってそれゆえ(ありていに言えば、それだけ経済理論を解するならば、ということで)、横井的な論説の放棄を勧めるという発言に結びついてしまった。河上が(そして福田も)、独自の経済発展論的な論理で問題を考えているにもかかわらず、問題の論争点が矮小化されてしまっている。
 福田自身は、明治末期において日本の農業問題について積極的に論陣を張ったわけではない。むしろ日本の農業問題への関心は、他の問題(工業労働者の賃金・待遇問題、株式会社や企業の経済合理的精神の要求に関する論説、商業教育論、経済史など)に比べると量的には極端に少ない。主要な論文は、社会政策学会第八回大会での報告「欧州戦乱期に於ける英仏両国大小農制度に関するアーサー・ヤングの研究」、それに東北地方への調査を基にした「社会問題としての飢饉」のふたつであろう。ただ論説の数は少ないものの、農業問題に対する福田の考えが、その後期にまで至る彼の理論体系を解き明かす、隠された鍵ともなっているだけに、無視できない重要性をもっている。
 前者の論文では、福田の国民経済への視点が、「我等は農業の振興を欲すると同じく商工業其他一般産業の振興を欲す」⑯ところにあるとし、河上と同様に、農工商併進鼎立論的な見地から、農業問題そのものにアプローチすべき旨が述べられている。ただ商業に関してはその前近代的な体質が問題にされ、商業者の経済合理性の獲得に注意が向けられている。福田の商業教育論や経済史観ともからむ重要な論点だが、以下の国民経済論の実質的な部分をなさない⑰。
 福田にあっては、日本農業の根本的な問題は、その経営の規模が小規模であることにあった。宮島英昭も指摘しているように、A.ヤング、W.ゾンバルトらの理論に基づいて小農の性格を、(せいぜい人口を維持することができるだけの)自足的生活で事足りる主体として定義し、この生活力の低水準を問題視した⑱。いわば、企業者的精神の欠如が、農村の貧困の主因なのである。
 この指摘は、東北の農村を事例にして、後者の論文でいっそう具体的に展開されている。東北地方の飢饉の原因は、自然的要因ではなく、主に農業者(中小農)が、貨幣経済の発展に慣れていない、いいかえれば、企業者的精神を持たないためだと、福田は主張している。現在の農業者の状態は、「借金的自足経済」であり、償還のための合理的判断のないまま、「都邑の商家」から農業の運営資金(あくまで自足的な水準を維持する程度の額)を借りるので返済できず、借金を借金で返すという悪循環に陥っていると指摘する⑲。
 このような経済合理性が欠如しているのは何故か? 福田は、それを「地主と小作人との関係が封建的主従関係で出来て居り、社会上の関係が悉く共同的寄合ひ的であること」に原因を求めた。もちろん、貨幣経済の進展によって、すでに地主の旧来的な扶養義務などはもはや存在しない。しかしそれにもかかわらず、農民の多くは、この「君臣的」な関係に「心理的」に依存している。
 「それ故縱令凶作があっても、地主たる所の君は臣下たる所の小作人を助けて呉れる義務がある。然るに地主に依頼して是等から借金をして居る農民の自足経済では、一度凶作があると地主に返済することができない」し、そのことが資金的な足かせになり地主自身も経済合理的な判断のできる企業者として自律できなくってしまう⑳。福田はここに農村部になぜ工業が発展しないかの一因を見出している。
 宮島英昭も鋭く指摘したように、この福田の視点には、土地の所有制のあり方への問題視はまったくみられず、もっぱら議論は経済主体の経済合理性の存否をめぐって行われている。このような問題へのアプローチの仕方は、福田の経済単位発展史観に基づくものであった。
 「蓋し生産力の進歩経済上の組織の進歩は、経済単位の縮小するを要する。もう少し詳かに云えば、個人性の発展が根本的である。即ち西欧羅巴に於ける経済的の進歩発展は、個人性の円満完美の発展を極めた上に築かれたのであって、而して今日の個人が完全に発展した結果、此の個人を集めた団体的の経済組織が既に悄々発展しつつある。然るに日本にては個人性の発展が甚だ後れて居る。是が日本の社会上・経済上の進歩発展の遥に後れて居る最も根本的の原因である。他の資本の足りないとか天然の便否とか、技術の進歩不進歩とかいふことは、独り此の経済単位の発展の如何に依って支配せらるゝ所の補助的原因たるに過ぎない」(21)。
 すなわち、福田から見れば、米穀関税は、このような日本経済の後進性の遅れである「封建的主従関係」=“経済主体の自律化”の阻害を促し、問題を温存する制度と理解されたのである。
 河上と同じように、農業の近代化の必要--企業者精神の育成--という視点では、まったく同じスタンスに立つのだが、ここでさらに重要で見落としてはならない相違がある。
 河上では、農村から都市への人口の流出が国民経済的な問題であることはすでに見た。また人口移動が可能な条件としての、農村からの「自由」な離村、すなわち職業選択(その選択の実現は別問題だが)と移動の自由がまがりなりにも保証された上での議論を、河上は行っていた。
 それに対して、福田では、農村からの労働者の移動はほとんど議論されていない。後に説明するように、都市への過度な労働移動は将来の可能性として議論されているだけである。むしろ、農民は、「封建的主従関係」に「心理」的に依存しているので、そのまま共同体の中に留まり、そこで「自足経済」的水準かそれ以下(飢饉)に甘んじる存在として位置づけられている。さらに、都市部での労働者市場のあり方を見れば、この農村から都市への労働者移動が、河上が問題視したほどには深刻なものとして、当時の福田は考えていなかった。その理由として高賃金経済論とその裏面である商工業での資本家と労働者の間の「封建的主従関係」の存在に対する批判がかかわってくる。
 要約して言えば、農村を離れて、都市に職業を求める上での所得上昇が期待できなかったこと、いいかえれば、都市も農村も、労働者への支払いは、市場賃金水準以下の「自足経済」的な賃金水準(人口を再生産するだけが可能な生存維持水準、あるいは自然賃金水準とも表現)であり、移動するインセンティブが生じないものと、福田の国民経済論の中で位置づけられていたからだと思われる。
 都市の商工業に雇用される労働者の賃金の低位な水準を問題視し、福田は賃金を上昇させれば、労働者の効率性を増加させるだろうという形で論を展開していた。その背景には、当時、企業サイドや添田寿一らの社会政策学会のメンバーからも主張されていた「温情的な主従関係」に労働者の待遇改善を頼るのでは、もともとの問題の根源をさらに悪化させるものだという、福田の強い危惧があったのは疑いない。
 すなわち生存賃金水準並であることは、都会でも農村でも大差なく、そこには移動する積極的なインセンティブがありえない。このことは河上が、さまざまに列挙した期待所得の都会における高位という認識を、福田はもっていなかったことでも立証できる。
 それを立証する重要な論文が、「都市の経済と社会政策」(1916)である。この論文は、河上の論文「人口は滔々として都会に流出す」と対照をなしている。福田も河上も同様に、都会の人口集中による健康問題の改善には、郊外(田舎)に労働者の住宅を構えさせ、公共鉄道で日々の通勤を行うことがよいと主張していた。
 「今日欧羅巴の都市が何に一番苦んで居るかと云ふと、都会の中心に人口が密集する。都市の目抜の所に非常に人間が集って、どんどん家を高くして大勢人が這入る、それが為に非常に衛生的に害がある風俗にも害がある。(略)所が市街の鉄道、殊に電車と云うものが最も有効に此の弊害を取り除き得る。中央集中を取り除けて、交通が便となると郊外に段々移住する、交通は廉くて自由にして行かれるようになると、必ずしも不便不自由を感じなくなり、空気の悪い日光の照らさない所に大勢集まる必要がなくなる。其所に行って仕事をしても仕事が終へたならば電車に乗り、馬車にのり、汽車に乗って郊外へ行く。空気の清い所、人の頭に宣い所、空地の多い所へ行って家族のものと平和な生活を営むことが出来る。従って都市の住居政策を行ふに最も有力に行ふことが出来ます」(22)。
 ここまでは、福田と河上の主張は同一のものである。しかし、河上にとってこのような交通政策が急務の課題として立現れいるのに対して、福田の場合は、将来的問題として捉えられていることに注意しなくてはいけない。
 「電車であっても廉く中央に往来が出来るようになると云ふと、中央に集って来ると云ふことの趨勢を非常に防ぐ、是は日本などでは未だ考えられないかも知れないが、私は仮りに数百歩譲って申して置く、少なくとも欧羅巴では大問題になって居る。日本と雖も段々大問題になって来て、必ず大きな所に於ては集中と云ふことの為に色々予期しない所の、人間にありそうもないような悪いことが行われて来る」(23)(下線は引用者)。
 すなわち、福田は都市への人口集中が(切迫してはいるものの)将来的な可能性として把握されている。その理由は、河上とは異なり、農村部の労働者が都市への就業をそれほど魅力的にはとらえていない、という福田の認識があったからにほかならない。福田の「都市の経済と社会政策」は、大正初期の論文であるが、同時期に書かれた「欧州戦乱期に於ける英仏両国大小農制度に関するアーサー・ヤングの研究」でもまったく同じように、都市への人口集中とそれに伴う商工業の潜在的な人口吸収力が「可能性」として言及されているだけであることに注意しなくてはいけない。
 「保護は反って愉安を生むが故に米価維持政策の如きは失当にして寧ろ米価下落を以て最善の奨励策とす。要は資本主義の洗礼なり。⋯⋯然りと雖も余は過剰農民の海外発展に賛する値はず。内地の商工業は多大の吸収力を有し又有すべし。吾人は外に向う前、先ず深く掘るを要す」(24)(下線は引用者)。
 実質賃金が生存水準かその近傍で一定ならば、外生的な要因による米価下落の変化は、農業・商工業両部門での実質賃金を上昇させるだろう。米価下落は福田の考えたように生活改善上の効果をもつにちがいない。しかし、これはあくまでも短期的な効果であり、都市の商工業を「先ず深く掘るを要す」とした発言には、商工業の「封建的主従関係」や「家族主義」「温情主義」による労働市場の前「営利経済」的性格への批判とその改善の要求が伏在していたのはいうまのでもないだろう。いいかえれば、そのような改善がなければ、都市部の人口吸収力はいまだ潜在的なままなのである。
 このように福田では、都市と農村は同じ「自足経済的」弊害に直面している産業をかかえるものとして、人口移動は将来的な可能性としてしか把握されていなかったことは、河上との比較の上でも重要な相違をもっていたといえよう。なぜなら、米穀関税の効果ひとつみても、福田本人が述べたように米穀価格の騰貴は事態の悪化(=農業と商工業部門での実質賃金の低下)をもたらすだけであり、河上の理論的把握でみたようなプラスの政策効果はおよそ考えられないからである。
 福田の両部門経済のあり方からいえば、福田自身が提唱した主にふたつの政策が問題の解決に有効である。第一に、短期的な対処としては、米穀関税撤廃による米穀価格とそれに影響される物価水準の低下を求めること。すなわち実質生存賃金が市場賃金水準へ近づくこと。第二に、より長期的な政策としては、農業・工業(そして商業)における経済主体の経済合理性の獲得を促すこと。すなわち市場システムの健全化の達成である。福田は大正初期以降、次第にこの第二の問題に向かっていくことになる。

4 論を閉じるにあたって

 論を閉じるにあたっていくつか感想めいたものを書き記しておきたい。
 本論ではなるべく、河上の主張を経済理論的な観点から整理しようとした。理論的な詳細はここでは触れなかったが、それでも福田と比べると正直にいえば、議論がいささか不明瞭であり、また議論の前提を考慮しても矛盾や明らかな錯誤と思われるところもおおい。たとえば、相対価格と一般物価水準の混同、貨幣賃金と実質賃金との関係の未整理、労働移動後の農村部での相対賃金上昇の可能性を認識できなかったこと、など挙げればきりがない。おそらく河上の初期の国民経済理論総体を今日の経済学の初歩的な知識で整理すれば、結論として「破綻」しているといいきっていいだろう。これは保護貿易論に立とうが自由貿易論の観点で整理しようが同様である。それに比して、福田の場合は理論的には非常に整理されて明瞭である。そのような意味で、本稿でとりあげた河上の国民経済論は、彼の主張のうちなんとか首尾一貫できるところを(私の能力の範囲内で)整理したものにとどまっている。ただそのような致命的な欠点にもかかわらず、河上が先駆的な経済発展論者のひとりであったという本稿の評価を変えるつもりはない。 


参考文献

河上肇(1982-85)『河上肇全集』岩波書店
杉原四郎(1989)『日本の経済雑誌』日本経済評論社
住谷一彦(1992)『河上肇研究』未来社
田中秀臣(1999)「福田徳三の商業教育論」『産業経営』第11号
(2000)「福田徳三と河上肇―明治末期の国民経済論争を巡って―」『上武大学商学部紀要』第11巻第2号
福田徳三(1925-27)『経済学全集』同文館
宮島英昭(1982)「初期福田徳三の経済的自由主義--明治末期の政策論争を中心にして--」『社会経済史学』48巻1号
1984)「「国民経済」をめぐる河上肇と福田徳三」『河上肇全集』月報12
脇村義太郎(1976)「「貧乏物語」前後―河上肇先生逝去三十周年を記念して―」『世界』3月号

1 河上肇『日本尊農論』2-214頁。河上肇の著作については、『河上肇全集』に出典をよった。引用の際には、最初に巻数、ハイフンの後にページ数を記入した。
2 河上肇『日本尊農論』2-232、248頁。
3 河上肇『日本尊農論』2-232頁。
4 『日本農政学』でも穀価低廉が、工業品の生産費低下に寄与すると主張。
5 河上肇『日本尊農論』2-233頁。
6 この場合、都市に流れ込んだ労働者が、逆に農村に帰農する場合は考えていないと思われる。
7 産業組合の重要性と、その河上の立論と柳田国男の所論との関連は、住谷一彦『河上肇研究』に詳細である。
8 農業は自足経済から離脱し、営利経済(貨幣経済)の段階にある。そのため農民は商人の資格をもつ必要があると河上は主張している。営利経済への対応のために、企業精神の涵養。経済教育の必要が説かれている(河上肇「本邦に於ける農家経済の現態を論じて経済教育の必要に及ぶ」参照)。『日本農政学』続1-52頁にも同様の趣旨の記述がある。
9 河上肇『日本尊農論』2-263頁。
10 河上肇『日本尊農論』2-280頁。
11 河上肇『日本尊農論』2-288頁。
12 河上肇『日本尊農論』2-289頁。
13 河上肇『日本尊農論』2-289頁。
14 河上肇『日本農政学』続1-141頁。
15 河上肇『日本農政学』続1-142頁。
16 福田徳三「欧州戦乱期に於ける英仏両国大小農制度に関するアーサー・ヤングの研究」(社会政策学会編『小農保護問題』)201頁。
17 田中秀臣「福田徳三の商業教育論」を参照。
18 宮島英昭「初期福田徳三の経済的自由主義--明治末期の政策論争を中心にして--」を参照。
19 「社会問題としての飢饉」(福田徳三『経済学全集』第5巻)1490-91頁参照。
20 「社会問題としての飢饉」1500頁参照。
21 「社会問題としての飢饉」1504頁参照。
22 「都市の経済と社会政策」(福田徳三『経済学全集』第5巻)1137-1138頁。河上は花園都市の構想を検討した後に、「花園都市の計画ほど有効ならざる代りに、之に比すれば遥に広き範囲に亘って実行されるべきものは、汽車電車の割引制度に在り、即ち労働者をして全部田舎に移住せしめ、日々汽車電車の便によりて都会に通勤せしむるの制度なり」「人口は滔々として都会に流出す」4-148、9頁と述べ、都市衛生問題の「根本的理想的解決」であるとしている。
23 「都市の経済と社会政策」1138頁。
24 「欧州戦乱期に於ける英仏両国大小農制度に関するアーサー・ヤングの研究」参照。