スポーツイベント(W杯やオリンピック)の経済効果のからくり

 上でも言及した昨年のW杯のときに『AERA』の特集号に寄稿したものを以下に再録します。オリンピックも万博も似たりよったりです。


 W杯経済効果のからくり
                   

 ワールドカップが近づくと恒例行事のように各種の経済研究所やシンクタンクなどから、「ワールドカップ開催によって生み出される経済効果は××億円」といった予測が発表される。もちろんワールドカップだけに限らず、オリンピックのような国際的なスポーツイベントから特定球団の優勝までさまざまな経済予測が出されている。こういった経済予測が本当に的中したのかどうか、僕はあまり事後的な検証がなされた事例を知らない。大雑把にいってこういった国際スポーツイベントの経済予測は良くて過大評価、一般的には景気や経済成長には無縁だというのが定説だ。もっともこのような経済予測はお祭り気分を盛り上げる一種の打ち上げ花火みたいなもので、最初からみんな本気になんかしていないよ、という皮肉な見方だってある。しかし前回の日韓ワールドカップのときは、この種の経済予測に過剰な期待が寄せられ、それが結果的に大きく裏切られることで経済的な損失を被った地元企業があったことをおぼえている人も多いはずだ。
 ワールドカップの経済効果なるものは本当にあるのか、あるとしてもどのくらいのものなのか、そして政府や開催国や参加国の国民はどんな態度でこの「経済効果」に対すればいいんだろうか? 以下では、ホスト国であるドイツ、優勝に絡んできそうな国々、そしてわれらの日本に与えるワールドカップの経済効果を順を追って考えてみよう。
 ホスト国のドイツは自然環境の保全に配慮するなど、過大は公共事業を行って会場の整備やスタジアムの新設などを行うことはやめている。しかし国際的なスポーツイベントがある場合に最も重要な経済効果とは、この種の「ハコモノ」の建設を実現するための公共支出がもたらす“ケインズ効果”というものだ。これはジョン・メイナード・ケインズといういまから80年前の大不況時に活躍した偉大な経済学者の名前からとった名称である。日本も過去10数年長期停滞にあって、前世紀の終りにはかなり頻繁に大規模な財政政策で“ケインズ効果”を実現して景気浮揚を狙ったことをおぼえている人も多いだろう。ワールドカップのスタジアム建設や周囲のインフレ整備のための公的な支出を行うと、この支出によって公共事業に従事した人たちは所得を得る。この所得の一部は他の財やサービスの購入に向けられる。さらにこれらの財やサービスを販売した人たちの所得は別な財やサービスの購入に向かい……とこの過程が繰返されることで、始めに支出された公共投資額をはるかに上回る規模の経済効果が実現されるというのが、このケインズ効果の意味することである。ケインズはかって深刻な不況のときには穴をただ掘って埋めるだけでも景気を刺激する効果があるといった。これは本当のことなんだけれども、最近はこのケインズ効果は先進諸国では評判がきわめて悪い。例えば不況であっても金融政策で十分に緩和すれば景気はよくなるし、公共投資で大会の運営期間中は黒字経営でも、大会が終わってみると設備を維持するために膨大な維持費用を要してしまい、まま地域経済を圧迫してしまうとか、あるいは過大な公共支出は金利の上昇をもたらして財政赤字問題を悪化させたり、さらには経済刺激の点でもこういった公共事業は税金や国債で資金調達をするので現状の消費を増やす上では大きな足かせがあるんだ、というもっともらしい批判までまさにケインズ効果を貶める理由に枚挙の暇はない。ドイツが環境にやさしい大会運営を目指すというのも実は表向きのスローガンで、実際にはケインズ効果による経済刺激が長期的にマイナスの副産物をもたらしてしまうという評価が大きく貢献しているのかもしれない。僕はやり方さえ工夫すればまだ使える経済活性化の方法だと思うけれども。エコノミストのゲルド・アラート氏が推計したところによるとドイツワールドカップの公共投資による経済効果は3億5千億ドル程度だそうだ。この推計は適切なものであると評価されている。しかしこの数字でさえも上記したケインズ効果を否定する様々な要因を考慮に入れているわけではない。
 ところでケインズ効果と同じ程度に注目されているのが、海外や自国内からワールドカップ観戦に訪れる人たちが現地で行う消費活動の貢献である。しかし現在のドイツは経済状況がそれほどいいとはいえない。つまり自国内からの観客の所得はかなり厳しく制約されているので、他の支出を切り詰めてこのワールドカップにやってくるとみていいだろう。そうなると自国内に与える経済効果は、旅費や宿泊費などのワールドカップ関連への消費支出が増えたとしても他の減額分を考慮に入れればプラスマイナスゼロではないか、とさえいわれている。例えば前回の日韓ワールドカップを思い出そう。この当時の各種経済予測では日本経済の規模を2兆円程度増加させるという試算が公表されてもいた。その原動力として想定されたのが国内の消費・投資活動であった。しかし2002年は日経平均株価が1万円台を大きく割り込み失業率も5%台をはるかに上回ったここ数年で最も危機的な状況の年になってしまった。この危機的状況の原因は政府や日本銀行の政策ミスによるものと専門家の間では批判されている。つまりワールドカップで経済が刺激されていても、政策ミスの前ではその効果は見るべきものがなくなるかもしれないことをこのエピソードは物語っている。
 というわけで期待できそうなのは海外からの観光客のおとすおカネ頼みということになる。ドイツに来訪するワールドカップ目当ての観光客の数は110万人で、彼らは一人当たり700ドル近くを現地で支出するのではないか、と先のアラート氏は述べている。この数億ドル規模の海外からの所得移転は少なからずドイツ経済に貢献しそうだ。最もこの時期の混雑を嫌ってドイツを訪問する通例の観光客が減少してしまい、98年のフランスワールドカップのときのように、観光客数の純増がなかった、という結果に終わることだってあるかもしれない。また先ほどの日韓ワールドカップのときの日本のケースと同じで、ドイツ国内の経済政策の動向に大きく依存するかもしれない。ドイツはご存知のようにユーロ経済圏の一員であり、その経済運営はECB(欧州中央銀行)に決定的に依存している。ECBは原油高などによるインフレを懸念して今後も利上げを継続する可能性がきわめて高い。もちろん利上げすればドイツでの経済活動も緊縮ぎみに推移するだろう。ワールドカップによる経済刺激効果があったとしてもこの利上げ効果の前にキャンセルアウトしてしまうかもしれない。ホスト国にとってワールドカップの旨みが享受できるかどうかは、ECBの金融政策頼みというのがどうも実状のようだ。
 ところで過去のホスト国の開催後の経済成長率はどのようなものだったろうか? 驚くべきことにほとんどの国がワールドカップ開催後に経済成長率の低下を経験している。あまたあるワールドカップの経済効果の中で統計的な意味ではっきり検出できたのは、この経済成長率の低下のみ!であったと、イギリスの著名なエコノミスト ステファン・シマンスキーは2002年に公表した論文「ワールドカップの経済効果」の中で書いている。
 では、ホスト国の経済効果ははっきりしないが、優勝にからむ国々はどうだろうか。一流経済誌でも優勝候補のイタリアなどはかなりの規模の経済効果を期待できると予想するところもある。今回の優勝候補は前回の優勝国ブラジルを筆頭にして、イタリア、オランダ、ドイツなどが上げられている。ところでブラジルは90年代に入ってから、いわゆるBRICs経済の一員として目覚しい経済成長を遂げている。そしてワールドカップにおけるブラジルもまた94年優勝、98年準優勝、02年優勝と絶好調である。この実績をみるとワールドカップがブラジルの経済にかなり貢献したのではないか、という推測もできよう。だが専門家の多くの評価は、ブラジルが90年代以降に採用した経済政策、特にそれまで高いインフレ率をもたらしていた経済体質を変化させたインフレ目標政策(一定の低インフレ状態に経済をコントロールする政策)がうまくいっているからからであって、ワールドカップ効果とは必ずしもいえないとみている。
 ところで興味深いのは90年代以降で3位以上に食い込んだ大半の国々がこのインフレ目標政策を採用して経済安定化を達成している国だということだ。前回、物凄い善戦をした韓国、ユーロ圏の経済諸国、ブラジル、スウェーデンなどは軒並みインフレ目標の採用国だ。ホスト国だったのに上位に食い込めなかった日本やアメリカは反対にインフレ目標政策を採用していない(もっともアメリカはグリーンスパンFRB議長が事実上のインフレ目標政策を実施していたとする評価が一般的だろう)。このことはワールドカップ上位進出はその国の経済運営がうまくいっているかどうかにかなり依存しているといっていいのかもしれない。
 さて日本が今回のワールドカップから期待できる経済効果を考えてみよう。電通や第一生命研究所などは波及効果も含めると4000億円以上の経済効果が見込めると公表している。観戦ツアー代やデジタル家電の購入増加などがこの経済効果の原動力だ。本稿でも繰返したように、ワールドカップの経済効果があるかどうかは、その国の現状での経済状況や経済政策のあり方にかなり依存していることがわかったと思う。日本は現在バブル景気以降最も順調であるといわれている。しかし他方で名目所得の伸びはそれほどでもなく、庶民は好景気を実感できず、むしろ「格差社会」の広がりを意識しているのが実状かもしれない。その意味ではワールドカップの効果は今回もはっきりしないかもしれない。
 ところでサッカーはもともと営利目的よりも競技そのものを楽しむために世界中に広まったスポーツである。本来、経済効果と一番無縁なスポーツといっていいだろう。ワールドカップが過大な経済効果をもたらすと国民が期待するよりも代表選手の活躍を純粋の楽しむほうがよほど国民の幸せに貢献するに違いないだろう。