城山三郎氏死去と「花失せては面白からず」


 城山三郎の作品の熱心な愛読者ではないですが、経済問題の評論めいたことを書いてからこの人の作品を読むことがわりと多くなりました。しかもどちらかというと批判的な観点で読むようになりました。例えば『男子の本懐』で開陳された事実上の清算主義マインドは金本位制と経済の関係を考えると支持することは難しいです。しかしまだ経済評論に首を突っ込む少し前に読んだ『花失せては面白からず』は何度も読んだ著作でした。この本については以前すこし触れたことがありますが*1econ-economeさんもこの本がお気に入りのようで同好の士として嬉しいです。笑。


 この本を読んだのはそろそろ決着がつく予定の福田徳三論の関連でして、福田徳三の弟子に山田雄三という一橋大学の先生がいました。国民所得統計や社会保障などの制度的な分析で成果をあげた方で、他方で様々な方法論や経済思想史的な著作も残しています。この山田雄三の弟子が城山三郎で、両者の関係を描いたのが『花失せては面白からず』でした。私は山田雄三の最後の著作『価値多元時代と経済学』をとても愛読している関係からもこの著作は山田雄三論を知る上で必読でした。本書は山田の生涯のスケッチ、城山との何十年にもわたる師弟関係、城山自身が経済学の教授から小説家に転進した契機と動機、そして90代と60代になってからも飽きることなく続いたふたりのゼミナールの記録として感銘深いものがあります。


 この『花失せては面白からず』の題名になった言葉は『花伝書』からの引用だそうです*2。この「花なくば、面白き所あるまじ」の一方で、一見すると反対の意味にとれる「花の萎れたらんことこそ面白けれ」などの「矛盾」を山田は城山に突きつけてその回答を求めます。城山はいろいろ推論するのですが、最後は山田自身の解釈(城山の本には山田の書簡、短文が多く収録されています)にその答えを見出します。


「心は移り変わるが、色や形が衰えてもなお残るものがあり、それが「花」である。輝かしさが消えても、代わって「つや消し」とか「渋味」といった「萎れたる風情」も出てくる」(同書184頁)。


 山田の著作もそうであったように、城山の著作もやがて同時代の息吹を伝えるという意味での華やかな「花」は消え去るかもしれません。しかしその著作のうちのいくばくかは、萎れた風情の中に秘めた「花」として長く命脈を保つことでしょう。


*1:http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20061013#p1の後半を参照

*2:典拠を確認していのですが、例によって『花伝書』は群馬の研究室にw