新型インフルエンザ問題


 ちょっと前に書いたものを蔵出し。そろそろ僕も予防注射をうけにいかなくてはいけないな。


『史上最悪のインフルエンザ』

ルフレッド・W・クロスビー


史上最悪のインフルエンザ  忘れられたパンデミック

史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック

 第一次世界大戦による伝統的な価値観の喪失を背景にして誕生した「失われた世代」の代表といえば、文豪アーネスト・ヘミングウェイとスコット・フィッジエラルドをあげることができよう。ヘミングウェイの代表作『武器よさらば』に登場するヒロインは、大戦中に知り合った看護婦がモデルであることは文学史では有名なエピソードである。しかし、そのモデルとなった女性がインフルエンザで病死したことはほとんど知られていない。またフィッジエラルドの所属した部隊は、インフルエンザの流行のために出発が遅れてしまい、幸運にも彼の戦争体験はまさに「失われた」ままに終わったことも同じように知られていない。そもそも「失われた世代」の命名者であるガートルード・スタイン自身が、インフルエンザ患者を搬送する救急車の運転手でもあった。


 クロスビーによれば、第一次世界大戦は、戦争という極限状況の一方で、パンデミック(インフルエンザの世界規模の流行)というもうひとつの極限状況が現出した時代でもあった。ヘミングウェイたちの人生と同様に、パンデミックはこの時代の人々の精神や社会の動向に深刻な影響を与えた。1918年から19年にかけて、インフルエンザによる死亡者数は世界中で3000万から5000万人にものぼったという。アメリカでは戦闘によるよりもインフルエンザが原因となる死者のほうがはるかに上回っていた。本書の前半では、当時、まったく未知な経験ともいえたこの感染症の大流行によって、アメリカ陸軍が壊滅的ともいえる打撃を被ったことが生々しく描写されている。


 そしてパンデミックによって世界の流れまでも影響を被ってしまった。パリ講和会議において、アメリカのウィルソン大統領はインフルエンザに罹患し、その判断力と行動が制約されてしまい、ついにドイツに過酷な条件を課すヴェルサイユ条約が締結されてしまう。つまりインフルエンザがドイツの苦境を深刻なものとし、やがてナチスの台頭や次の大戦の準備まで用意してしまったのかもしれないのだ。インフルエンザ恐るべし。


 本書は多様なエピソードと詳細だがわかりやすい医学情報を駆使して、この世界規模で広がっていくインフルエンザの流行を克明に描いている。予防も治療法も解明されていない感染症の流行がいかに人類に脅威であるかを本書は教えてくれるが、またその治療と原因の究明に取り組む人々の情熱も伝わってくる、まさに多面的なパノラマのような作品である。今日、われわれも未知なるパンデミックの襲来に警戒を強める中で、歴史の教訓として読むべき一冊といえよう。