hamachanのご批判w

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_e097.html#comment-3130961


ちょっと話は違うが、最近ネット各所で、笠信太郎三木清都留重人森嶋通夫高田保馬西部邁村上泰亮といった面々を、社会経済の構造問題に取り組んだからというだけで「構造改革主義者」「清算主義者」などと一括し、小泉改革の源流だなどと主張する浅薄な歴史観がもてはやされているようだ。歴史無知ばかりの世の中ではちょいとはじっこを囓っただけのインチキ議論が通用するものだなあ、と感心する(本田さんの殷鑑は遠くないぜ)。
無産政党の綱領案を作成した社会主義者で、笠や三木とともに昭和研究会に参加して統制経済の国策作りに携わった「革新派」の高橋亀吉構造改革主義者じゃないのかね。都合のいいとこだけつまみ食いしても、歴史の専門家はネットなんかのぞきゃしないからな。

投稿 hamachan | 2006年9月15日 (金) 14時07分


え〜と構造問題に取り組んだだけでは構造改革主義ではないですね。拙著をよく読みましょう。読んでもわからないときには相手にしませんからよろしくw。


 まあ、ソース(拙著)も確認せずに「浅薄な歴史観」を問題にされているようですが、その前にご自分の浅薄な研究姿勢あるいは浅薄な批判姿勢を問題にされたほうがよろしいですねえ。


 あと高橋亀吉は「構造改革主義者」ではございません。リフレと構造改革は矛盾もしませんし、マクロ経済環境によってはリフレ極上の人間が構造改革極上に変転してもち〜とも不思議なことではございません。hamachanは昭和研究会のときのマクロ経済環境をご存知なんでしょうか? どうもご存知なさそうですが 笑)。


 それと高橋が社会主義者であったという指摘と構造改革主義者であったという指摘を結び付けているようですが、そもそも構造改革主義の意味がとれてないので意味のない話ですが、それでも高橋が社会主義者であったということはhamachanの指摘から離れて面白い論点を形成しております。繰り返しますがhamachanの指摘とは無縁にです 笑。


 たぶん高橋亀吉が昭和恐慌期の発言においても、「リフレと構造改革」という政策割り当てと、「構造改革主義」との間で揺らいでいるような発言をしているのは、谷沢永一氏の指摘もありますが、社会主義の尻尾をある程度引きずっていたからではないか、という解釈も成り立ちます。ただ基本的には「リフレと構造改革」の政策割り当て論者であっただろう、と私は(そしておそらく谷沢氏も)解釈しておりますね。


 私は「リフレと構造改革」の政策割り当てを基本的に維持している論者として高橋亀吉を捉えてますので、『沈黙と抵抗』の巻頭には高橋を「構造改革主義者」ならぬ「構造改革論者」の先駆として評価さえしております。それと三部作(『沈黙と抵抗』、いま書いてる福田徳三論、最後に高橋亀吉論)の予告をしてますが、それでも亀吉の経済思想の基本的性格は、『平成大停滞と昭和恐慌』に書いてますのでご参照ください、

 ええっとhamachanがちゃんと経済思想史の専門的な研究を背景に批判してくれれば面白いのですが、所詮、今回のソースの確認もせずに、コメント欄でいきまいてる程度ではねえ。しかも普段あなたのブログ読んでないんだから大竹さんのところで気が付いたよ。


 論争(あるいは批判だけ?)したいんならちゃんと本人にわかるようにやってね。


(補足)ここをご覧いただいている歴史家の皆さん(?)はお分かりと思いますがhamachanはちょっと不用意なことかかれてますね。

<笠や三木とともに昭和研究会に参加して統制経済の国策作りに携わった「革新派」の高橋亀吉

高橋と笠・三木の昭和研究会の参加時期とまたその取り組みの実際が、hamachanのお書きになったような「とともに」と言い切るには微妙な問題である、ということは常識なんですが、そういうのも「浅薄な歴史観」ですか、そうですか。だめだこりゃ。