文化クラスターと「コスト病」

 タイラー・コーエンの『創造的破壊』(2002)や『市場と文化的声』(2005)で援用されている概念に「文化クラスター」というものがある。「文化」+「クラスター」=文化クラスターであり、このクラスターという概念自体は、マイケル.E.ポーターによって一般に有名になった。

 いま手元にポーターの業績を簡潔に整理し、それを日本などの事例に応用した好著『ポーターを読む』(西谷洋介、日本経済新聞社)がある。以下は西谷氏の著作による。ポーターはクラスターを、「相互に関連する企業や機関が、狭い地理的な範囲の中で、ある分野に集中して存在する現象。これらの企業や機関は共通性や補完性で結び付けられている。地理的な範囲は、一つの都市から州や国、場合によっては近隣諸国のネットワークもありうる」という。

 このようなクラスターを発展させることが、地域経済政策について重要だという。特にクラスターの環境がどのように設計されているかによって、企業が競争に勝ち残り、イノベーションを活性化する上でも肝要だという。ポーターでは、政府と民間部門との協調がこのクラスターの発展に欠かせない役割をもっている。その詳細については、『ポーターを読む』の167頁に、ポーターの手になる概念図が掲載されているので参照されたい。

 コーエンはこのクラスターを文化産業に応用して、文化クラスターという概念に鍛えた。例えばウィリアム・ボーモルが提起した「コスト病」という概念がある。これはいくつかの類型があるが、例えばオーケストラや劇団における実質賃金の上昇に代表される費用の通時的増加傾向を意味することが多い。例えばオーケストラの楽団員や演技者たちの生産性の伸びよりも大きくコストが増加していくケースが、文化産業ではしばしば観察できるとボーモルは指摘した。このとき、劇場の経営者などは、(コストの増加に対処するために)入場料金などをあげることで観客の減少に甘んじるか、あるいは楽団員や演技者たちの給与を引き下げることで彼らのやる気を失わせるか(さらに生産性は低下するかもしれない)のいずれかに直面してしまう。これがボーモルのコスト病のよくある描写のひとつである。

 コーエンはしかしこのコスト病を文化部門であまり支持はしていない。コスト病は、生産過程のイノベーションや生産のイノベーションなどで回避されてきたとコーエンは指摘している。例えば、AKB48の劇場公演を劇場に足を運ぶ以外にも、さまざま視聴可能なツールが開発されている。ニコニコ生放送でもUstreamでも実況できるに違いないし、録画でよければさまざまなメディアが開発された。これらをコーエンは生産過程のイノヴェーションと指摘している。生産のイノヴェーションの方は、芸術家や演技者の「アイディア」のイノヴェーションのことである。ボーモルのコスト病のケースとしてしばしば使われる例が、モーツアルトの時代でも現代でもモーツアルトのオペラ歌手の数は固定である。しかしコーエンは、ボーモルはオペラ歌手の「アイディア」までも固定したものととらえていると批判している(「私はなぜコスト病を信じないのか」。これもAKB48の例でいえば、アドリブやMCなど、あるいはフォーメーションの変更(誰をセンターにするかがまったく異なるアイディアとして演技者、観客によって認知されている事実がある)に、そのような生産のイノヴェーションをみることができるかもしれない。

 このようなイノヴェーションを可能にする環境として、コーエンは「文化クラスター」に注目している。『創造的破壊』の中では、ハリウッドの事例を出したこの文化クラスターについて述べている。コーエンは、ハリウッドの生産する映画というものは流動性が大きい(つまり運送コストが低い)ので、クラスターを一定の地域に発生しやすくするという。逆に運送コストがかさむような財(セメント生産)などは、クラスターを生みだしがたく、それぞれの地域にかならず存在する産業だという。

 しかもクラスターはまた自己実現的な側面をもっている。ハリウッドでは映画を制作するスタッフ(熟練労働者)の潤沢な共有プールが存在している。また消費者の需要予測や映画のマーケティングにたけた人たちも豊富に存在している。ここ数十年、映画の製作費は、ボーモルのいうコスト病のように累増しているが、ハリウッドは(他の地域はおそらく生産性の伸び<コストの伸びによりコスト病に陥る→クラスター形成できない)そのクラスターによってこの映画製作費の累増に対処するだけの、さまざまなイノヴェーションを可能にしてきた、というのがコーエンの主張である。

 日本ではこのような文化クラスターとしてはどのようなものがあるだろうか? 秋葉原はそのような地域として存在しているのだろうか。またネットもそのようなクラスターとしてみなすべきなのか、いろいろ考える素材は尽きない。

ポーターを読む (日経文庫)

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舞台芸術 芸術と経済のジレンマ

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Creative Destruction: How Globalization Is Changing the World's Cultures

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岩田規久男『福澤諭吉に学ぶ思考の技術』

 デフレ脱却をめぐる論争でしばしば目につくのは、岩田先生が冒頭で書いているように「些細な問題点や私の提案する政策を実施するにあたっての技術的な困難などを指摘して、私の議論のすべてを否定しようとするものが少なくな」く、「なかには、私の提案をすすめたときに万が一起こるかもしれない極端なケースをとりあげて、それがあたかも普通に起きることであるかのように主張して、反対する」傾向である。

 このような論争経験を長年積み重ねてきて、岩田先生は福澤諭吉の『文明論之概略』に出会う。より正確にはその本を注釈した丸山真男に出会ったのである。

 岩田先生は次のように書いている。

「『文明論之概略』は、「長く続いてきた習慣や伝統には、それ自体に内在的価値があると思い込み、それを墨守すること」を「惑溺」と呼び、そうした「惑溺」を一掃した本である」。

 この「惑溺」こそ、デフレ脱却問題でしばしばぶち当たる日本銀行の政策スタンス、つまりは官僚的な前例踏襲主義の別様の表現であろう。

 さて実際の中味はさらに斬新である。たぶん多くの人が長年疑問に思ってきた、「朝日新聞天声人語ってそんなにいい文章なのか?」というものに、冒頭から岩田先生はずばり「No!」と断じている。福澤の発言を引用しながら、天声人語はいったい何が議論の本位なのか明示することなく、それを明示したとしても十分に論じることもなく終わってしまう悪い文章であると。

 確かに日本でしばしばみる議論はいったい何が議論の本位(テーマ)なのかわからないものが多い。政策にいたってもそうだが、官僚的にはさまざまなオプションだとか、さまざまな目的をもたせて単一の政策を「パッケージ」化することが多い。パッケージ化するといろいろな人が納得しやすくなるからと「惑溺」として官僚や政治家が思っていることでこの種の政策のパッケージ化が喜ばれる。しかし政策にはそれに適切な目的が割り当てられるべきだが、日本の現状ではそれが毎度あやふやである。その典型が私見では「構造改革」の「構造」である。これも提唱している人たちが「構造」という慣習的用語に「惑溺」してしまい。それが具体的に何を本位としているのか明示しようともせず、おそらくわかってもいないのことがしばしばである。

 岩田先生はそのような議論の本位を逃した議論として、大相撲の野球賭博問題を例示していて、これも面白い議論になっている。さらに興味深いのは、本書の中盤の議論だそこには福澤の発言に基づいた自己責任論が明記されている。

「(略)多くの日本人の責任の取り方は、福澤のいうように自己責任を原則とする個人主義とはかなり異なっている。自己責任を原則とすれば、裁くべきは法に照らした罪であり、世間が騒ぐ程度に応じて罪が変わるわけではない。メディアは力士が野球賭博をすると大騒ぎするが、普通の企業の社員がしても記事にもしないであろう。しかし、どちらも法を犯した罪は同じであるから、メディアがとりたてる程度で罪の重さが変わるわけではなく、同じように自己責任をとるべきである」

 これは別エントリーに各つもりだが、京大などでのカンニング事件にもまさにあてはまることだと僕は思っている。岩田先生はこのような事態が生じるのは日本では個人の自立が難しい環境あがるからだと指摘する。

 ではどうするべきか。「惑溺」を避け、因習にとらわれず、多事争論を支持し、極端主義(これは僕流には湛山のいった根元病も同じに思える)を避けることなど、本書の後半にはその知恵が詰まっているだろう。

 あまりに面白いので全部中味を要約してしまいそうになるが、ぜひこのエントリーを読んで満足することなく、関心をもたれた人はぜひ一読されるべきである。岩田先生が福澤諭吉という「古典」を現代をするどく批判する武器として再生することに成功していることがよくわかるだろう。傑作である。

福澤諭吉に学ぶ 思考の技術

福澤諭吉に学ぶ 思考の技術

京大などカンニング事件雑感

 上の岩田先生の『福澤諭吉に学ぶ思考の技術』を読まれてから、以下の議論を読んでもらいたい。Twitterでつぶやいたことを整除したもの。

Twitterより

 カンニング事件だけど、仮に各大学が警察に届け出を出さないで内部調査でカンニングの実態を調査したら、ふたつの可能性があるよね。カンニングが特定できたのと特定できない場合。カンニングは大概が「現行犯」として証拠保全などをするのがどの大学もやってるルールなので、事後的に掲示板の答えと解答が同じで「特定」できたとしても、試験の結果を取り消すのは不可能だよね。普通のルール通りだと。

 となると「特定」はできたが、それを理由に試験の合否判定を変えることを世間に公表することは難しい。なので特定できても特定できなくても、おそらく大学内部の事後調査で、合否判定自体の再評価をするのは著しく難しいよね。たぶん。簡単にいうと、カンニングを「現行犯」で特定し公にする以外の手段やルールを多くの大学はもってないんだよね。

 もちろん事後的に、カンニングを「特定」して、さらにそれを合否判定に反映させる手法もあるに違いない。どの大学も合否判定の会議があるからそこで「特定」を公に公開しないまま内部処理=不合格などの扱い、にしてしまうやり方が考えられる。でもこれも試験の成績を受験生に開示していると困難になる

 基本的に事後的なカンニング特定化とそれの公にした判定処理というツールをさっきも書いたけど大学はほとんどもってないし想定もほとんどしてない。今度の事件は、警察に事後の特定化とその処分をまかせたが、それ以外にも「カンニングを(公に処分可能な水準で)特定できない」と世間に公表することもありえた。もちろん特定することが可能な場合もあるだろうけど。

 問題は今後だよね。たぶん各大学は警察への外部委託をほとんど議論をつめることなく採用したように思える。いや、したのかもしれないけど、そのわりには動きが早すぎる。

 世論のプレッシャーを除けば(これが大学の秩序とかに与える影響はいまは仮定により度外視する)、事後的にカンニングをどう処理するかという問題でしかない。例えば、試験終了後、ある受験生が大学側に「隣の席の子がカンニングをしていた」と申告してきたとする。このケースと今回のケースは行為としては異ならない。では、このひとりの受験生の証言から各大学は警察にカンニング捜査を要請するだろうか?おそらくしないだろう。 

 で、この対応の違いはなんだろうか? それはさきほど仮定で[カッコにくくった「世間からのプレッシャー」への対応の違いでしかない。いいかえるとカンニング自体が大学の試験制度に与える損失が大きいからではない。では「世間からのプレッシャー」に対応するために、カンニングをやった人を警察にまかせすのが適切な政策の割り当てだったろうか? さきほども書いたが「世間からのプレッシャー」がないカンニング行為は今回と同じものでも警察にまかせることはないだろう。まさに岩田先生が自己責任論の文脈で指摘した問題と同じものが今回のカンニング事件の背景にもあると僕は思う。

 つまりカンニングへの対処ではなく(それは大学は現行犯という政策で対処してきたし、事後的にもかなりハードルは高いがなんらかの対処はとれたはず)、「世間からのプレッシャー」が問題なのであり、この問題への対応ならば、大学はほかの選択肢をとるべきではなかったろうか。

 ありていにいえば、「世間からのプレッシャー」を甘んじてうけいれ、現行犯でカンニングをみつけられなかったミスを反省し、世間に土下座でも広報周知でもすべきではなかったろうか。あるいは人間なんだから完全にカンニングを防ぐことはできないと言い切るものひとつの道だろう。と同時にすべての受験生に当該問題の配点について「保険金」ならぬ「保険点」を支払うことも考慮すべきだったろう。

 しかしそういうことをいくつかの大学(特に京都大学)はしなかった。つまり大学の責任がうやむやになる一方で、カンニングをした学生の自己責任の範疇が「世論からのプレッシャー」によって拡大されあいまいにされてしまい、不当なほどの責任をおわせることに繋がっている。

 市場(大学)には「世間からのプレッシャー」問題に対処できるいくつものツールがあるのではないだろうか? それにまともに向き合うこともせずに、本来負わなくてもすむ(あるいは負わせるならば今後すべてのカンニング学生が負うことなる)「責任」をしょわせてしまう、その態度は、まあ、率直にいってひどいように思う。