早いなあ。原書で研究室に注文してまだ来たばかりなんですが、もう翻訳登場ですか。
- 作者: ラニー・エーベンシュタイン,大野一
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2008/01/24
- メディア: 単行本
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早いなあ。原書で研究室に注文してまだ来たばかりなんですが、もう翻訳登場ですか。
ヴァージニア・ウルフといえばピノキオになった二コール・キッドマンが田中の定番の応答なのですが、まあ、本日は少しヴァージニア・ウルフといえば経済学者はケインズのいたブルームズベリー・グループを連想しますね。ここでは当ブログらしく(?)、コミック風味にBL路線で今日の日を記念しましょう。
テートギャラリーの以下のホームページも美しいデザインですのでぜひお楽しみください
http://www.tate.org.uk/archivejourneys/bloomsburyhtml/group.htm
以下の引用文は平井俊顕先生の『ケインズ100の名言』からのもの。
ジョン・メイナード・ケインズが恋人の画家ダンカン・グラントと同棲していて、そのときにケインズがグラントに送った手紙が以下。
「今日の夕方、僕は君がひどくほしい。でも数日間は一通の手紙すら望む事ができないのだ。君の写真があってとても嬉しいよ。君の髪をなでつけたい。愛しい、愛しいダンカン。僕は本当に君のことを愛している。きみはここにはいない、僕は君に手紙を書くことしかできない。」
「愛しいダンカン。君に接吻をして、しっかりと抱く事ができれば幸せなんだが」
「北のほうに素敵なコテッジを見つけて、そこで永遠に暮らそうよ。おやすみなさい。」
で、後日、ケインズもグラントも離別して、ケインズはロシアのいまだと超アイドルともいえるバレリーナのリディア・ロボコヴァと結婚。これは偽装結婚説、いやケインズバイ説、本当に熱愛説などいまだに定説なし。というのがいまの僕の理解のレベル。いまはケインズとリディア書簡集がでているらしくそれを読むと真相がつかめるか? またダンカンの研究はかなり進んでいそうで、これらの業績とケインズ側との業績を照らし合わせると興味深い研究ができるかもしれない。
ところでこんなケインズらの「モラル」が嫌いな、かの『チャタレイ夫人の恋人』のロレンスはケインズらを「ゴキブリ」と嫌ったそうである。 そしてケインズの末裔たらリフレ派はかの山崎元氏から「声の出るゴキブリ」と村上龍MLで批判されたのは*1、リフレ派に流れるBL遺伝子のせいなのか?? な、わけないか。笑。
さてケインズがヴァネッサ・ベル(ヴァージニア・ウルフの姉)に送った手紙
「あなたに残してきた若者達を相手に楽しい午後をお過ごしでしたか? 午後の日差しの草丘ではさぞかし心よかったことでしょう。でもあなたがむき出しの四肢を相手の四肢に絡ませ、未熟な男色の前戯を恍惚として行っているところを想像します」
ケインズが「残してきた若者達」とはダンカンが含まれていたことは間違いないでしょ。 後にヴァネッサとダンカンは同棲。ヴァネッサはケインズのよき腐女子トモになっていきます。
ところでケインズのBL相手の「若者達」をご紹介。以下はケインズがダンカンに送った手紙。
「2,3分で僕はジェームズとジェラルド・ショーブ(ジェームズが僕のために恋の相手として設定してくれたんだ)と一緒に出かけるところだ。ここに来てくれよ。そうすれば、僕はキングス・カレッジのチャペルを君のスタジオに変身させるよ。君はすべての美男子を描いてくれたまえ。サーモン・マヨネーズで生活してくれたまえ。ジャスティンに君の給仕をさせ、ルバートに君の顔を剃らせ、僕に接吻させてくれたまえ」
さすが『モーリス』文化炸裂ですなあ。
ダンカンはこの手紙の当時リットン・ストレーチーと同棲中。それをケインズが猛烈アタックで一時三角関係。日本のwikipediaではリットン・ストレーチーとケインズができてたらしいと書かれてる(これは本当?)のでそれが本当なら正三角形関係ですな。
上のケインズからダンカン宛のBLの花園のような手紙の登場人物をご紹介
ジェームズ→「ジェームズ・ストレーチー」…リットンの弟。
ジェラルド・ショーブ…後に経済学者
ジャスティン→調査中。当時はケインズはかのエベレスト初登頂をしたかどうか世紀の謎を残した登山家マロリーに率いられた学生達の一群にも「しばしば美男子がいる」と注目している。その中にひとりか マロリーはBLから100億光年離れてる谷口ジローの『神々の山嶺』にご出演。
ルーパート→ルーパート・ブルック…こうケインズは書いている「ルパートの美しさは素晴らしかったので、ロマネスク風の青い衣服を身につけた、彼の美しさのことを考えていて昨夜は一睡もできなかった、とジェームズは公言している」
ところでケインズは遺言でダンカンに遺産を残し、また年金の支給も指定していた。彼の書いた絵画の保存にも最後まで気をつかっていたのである。生涯BL道。
ヴァージニアがほとんどでてこないのだが 笑
昨日は(モーニング娘。エントリー以来)久しぶりに群馬の研究室にいき、ちょっと探し物をいくつかしてきました。今日はその話。
他のエントリーで、yyasudaさんが始めに、アカデミックな文脈ではベイジアン合理性が例外なく合理性である、と明言されたときは正直驚きました。驚いたわけは、すでにエントリーに書きましたが僕がアカデミックではないかw、あるいは相当いまのベイジアン合理性は研究の進展の結果、他の合理性概念を意味なきものとして駆逐したのか、と思い研究分野が違うと本当に何が起きてるのかわからんなあ、と驚いたのでした。その後、それはアカデミックな文脈は経済学の中だけで、しかもベイジアン合理性以外の合理性もあるとのことでほっとしました。
とはいえちょっと最近の合理性議論はどうなっているのかすごく気になってはおります。個人的には合理性を議論するときはフランクにならい「自己利益追求」という修辞でいいのではないか、と思いますが、それはそれとして、自分の合理性理解をまずは問いただす必要があるかなあ、と思いました。1991年にロバート・サグデンという人が『エコノミック・ジャーナル』に合理性をめぐる展望論文を書いていて、それが僕が昔読んだことがあるこのテーマでのごく少数の論文となります。
この論文はさきほど読み返してみて、内容をほとんど忘却していたのにしみじみと驚いたわけですが(笑)、他のエントリーで気になっていたハーサニーの自滅型のケースに似たものがでてきました。たぶんこれを読んだ記憶がどこかに残っていたのでこの自滅問題が気になったんでしょう。ハーサニー自体はまだ確認してません。このサグデンの論文では、ベイジアン合理性では解決できない自滅問題を別の合理性概念を前提にすれば解けることが直観的に説明されています。
同論文ではまずベイジアン合理性(この言葉自体はサグデンの論文には出てこないので、期待効用仮説と基本的に同じなので以下ことわりないかぎり期待効用仮説といいかえる)の基本的な3つの仮定を「合理性の共有知識」と命名しています。
1 ゲームの数的表現は共有知識である
2 各プレイヤーは期待効用仮説の意味において合理的であり、相手方の選ぶ戦略をサベッジ的な意味での「出来事」として取扱い、このことが共有知識となっている。
3 ゲームに関する証明可能な論理的・数学的定理は共有知識である
ところがこのような仮定に基づく合理性は実に単純な問題も解決できない。例えばトーマス・シェリングが60年に持ち出した「細道ゲーム」を解けない。これは二台の車がやっと通れる道をいま二台の車が走ってきても上記の「合理性の共有知識」を維持しているかぎり二台の車は道を通ることができない。
二台とも左か右を選べばプラスの値の効用をえられるが、たがいに違い方向を選ぶと効用はゼロ。事前交渉をみとめて両者は合意を交わすことは可能だとする。
しかしこの状況でも両者が「合理性の共有知識」をみたす行為功利主義者(期待効用を最大化できるならば、事前の合意を反故することもいとわない人)であるならば、車は道を通れない。
なぜならいま田中くんと池田くんがそれぞれ車に乗っていて、事前に「俺たちは左におたがいいこうぜ」と合意していたとしても、両者が上記の意味での行為功利主義者だとするならば、両者ともに道を通るという簡単な協調ゲームができない。田中の車は左にいくという約束をしたから左にいくのではない、なぜなら行為功利主義者なので期待効用を最大化するほうにいくだけである。このとき田中の期待効用最大化は、池田の車がどう動くかに依存する。池田が左に動くと予測されるならば、田中も左に動くべきである。しかし田中は池田が行為功利主義者なのを知っている。池田が事前の合意を守る理由はいささかもない。池田はこのとき田中の行為予測に依存して期待効用を最大化する、しかし田中もまた池田の行為を予測し……と無限後退に落ち込む。
このときにシェリングはFocal Pointという考えを提起した。田中も池田も共通の信念として左にいくと信じている、というわけである。例えばいまから田中は池袋の本屋にいくのでそこで会おうとだけいっても、勘のいい読者はジュンク堂の地下1階のマンガ売り場にいることを選ぶだろう。
しかしこの左にいくことがFocal Pointだとしても、それが左にいくべきであるという結論には必ずしも直結しない。だが、「合理性の共有知識」を少しだけ緩めるとこの左にいくという行為が“合理的”となる。つまり彼らが人間は左を必ず選ぶという不合理なことを行う(=完全に合理的であるという共有知識を採用しない)ことを共有知識として保持しているがゆえに合理的なプレイヤー(田中、池田)は協調して道を通ることに成功するのである*1。
このように「合理性の共有知識」の仮定を緩めることが道の通過という実に単純な協調ゲームを解くことに役だつのである。これをサグデンは合理性の拡張としてとらえているようである。他にも自滅型ゲームの説明があるが今日はこんなところ。ところで合理性については他に本棚に例のノージックの本があった。これもそのうち興味でたら呼読んでみようかな。
The Nature of Rationality (Princeton Paperbacks)
ところで問題、上記Focal Pointの議論を念頭に、今日、田中は映画を観にいくといって出かけたとすると、いったい彼は何を見るのか?
*1:ほかに田中君と池田君がチーム「田中くんと池田くん」をつくればこの道を通る問題はチームの期待効用最大化として解ける
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*1:いいのが見つからないときはホームページに先祖がえりする予定
いや、別に昨日のエントリーの補で書いたように韓流ネタでいま冷却しようとは思ってませんから 笑。単純バカにいって、このソン・イェジンと韓国の宮崎哲弥主演の『恋愛時代』は良すぎるので公衆の面前でw激しく賞賛したい欲求があるだけです。最後の二回分で泣かない人はいないでしょう。いまも実は再視聴してました。いろんなレビューで語られているように韓流ドラマ的な要素がほとんど欠如していることも特筆すべきこと。
原作の野沢尚氏の貢献ももちろんあると思います(原作もさきほど古本で購入。週末のお楽しみにする予定)。あまりに感動したので野沢氏のブログに記念のTBを。http://blog.so-net.ne.jp/nozawahisashi/2008-01-14
『恋愛時代』の内容はここを読めばわかります。http://nozawahisashi.jp/works/01_012.html
劇的な誇張を排して、演技者の生の音声だけを拾っているのが、かえってふいに流れる音楽を非常に効果的なものにしている。このサウンドトラックも聞いてみたいもの。ちなみにいままで韓流ドラマで購入したサウンドトラックは『冬ソナ』三種類(笑)、『夏の香り』に続いてこれが三作目。
ところでここでラスカルさんのエントリーみててズバリいうと、この『恋愛時代』の基本モチーフは、かのフランス映画『幸福』。特に最終話はまさにその幸福モチーフが印象深く展開している。
経済学の教科書は読まなくていいからこれ嫁、じゃなくて見よw
上の写真の下部分はこのドラマの象徴的なシーンで、オープニング映像とともに印象深し。
(補)野沢ブログにTB送ったあとにエントリー題名変更