合理性問答(田中君と池田君が道を譲れないわけ)

 昨日は(モーニング娘。エントリー以来)久しぶりに群馬の研究室にいき、ちょっと探し物をいくつかしてきました。今日はその話。


 他のエントリーで、yyasudaさんが始めに、アカデミックな文脈ではベイジアン合理性が例外なく合理性である、と明言されたときは正直驚きました。驚いたわけは、すでにエントリーに書きましたが僕がアカデミックではないかw、あるいは相当いまのベイジアン合理性は研究の進展の結果、他の合理性概念を意味なきものとして駆逐したのか、と思い研究分野が違うと本当に何が起きてるのかわからんなあ、と驚いたのでした。その後、それはアカデミックな文脈は経済学の中だけで、しかもベイジアン合理性以外の合理性もあるとのことでほっとしました。


 とはいえちょっと最近の合理性議論はどうなっているのかすごく気になってはおります。個人的には合理性を議論するときはフランクにならい「自己利益追求」という修辞でいいのではないか、と思いますが、それはそれとして、自分の合理性理解をまずは問いただす必要があるかなあ、と思いました。1991年にロバート・サグデンという人が『エコノミック・ジャーナル』に合理性をめぐる展望論文を書いていて、それが僕が昔読んだことがあるこのテーマでのごく少数の論文となります。


 この論文はさきほど読み返してみて、内容をほとんど忘却していたのにしみじみと驚いたわけですが(笑)、他のエントリーで気になっていたハーサニーの自滅型のケースに似たものがでてきました。たぶんこれを読んだ記憶がどこかに残っていたのでこの自滅問題が気になったんでしょう。ハーサニー自体はまだ確認してません。このサグデンの論文では、ベイジアン合理性では解決できない自滅問題を別の合理性概念を前提にすれば解けることが直観的に説明されています。


 同論文ではまずベイジアン合理性(この言葉自体はサグデンの論文には出てこないので、期待効用仮説と基本的に同じなので以下ことわりないかぎり期待効用仮説といいかえる)の基本的な3つの仮定を「合理性の共有知識」と命名しています。


 1 ゲームの数的表現は共有知識である
 2 各プレイヤーは期待効用仮説の意味において合理的であり、相手方の選ぶ戦略をサベッジ的な意味での「出来事」として取扱い、このことが共有知識となっている。
 3 ゲームに関する証明可能な論理的・数学的定理は共有知識である

ところがこのような仮定に基づく合理性は実に単純な問題も解決できない。例えばトーマス・シェリングが60年に持ち出した「細道ゲーム」を解けない。これは二台の車がやっと通れる道をいま二台の車が走ってきても上記の「合理性の共有知識」を維持しているかぎり二台の車は道を通ることができない。


 二台とも左か右を選べばプラスの値の効用をえられるが、たがいに違い方向を選ぶと効用はゼロ。事前交渉をみとめて両者は合意を交わすことは可能だとする。


 しかしこの状況でも両者が「合理性の共有知識」をみたす行為功利主義者(期待効用を最大化できるならば、事前の合意を反故することもいとわない人)であるならば、車は道を通れない。


 なぜならいま田中くんと池田くんがそれぞれ車に乗っていて、事前に「俺たちは左におたがいいこうぜ」と合意していたとしても、両者が上記の意味での行為功利主義者だとするならば、両者ともに道を通るという簡単な協調ゲームができない。田中の車は左にいくという約束をしたから左にいくのではない、なぜなら行為功利主義者なので期待効用を最大化するほうにいくだけである。このとき田中の期待効用最大化は、池田の車がどう動くかに依存する。池田が左に動くと予測されるならば、田中も左に動くべきである。しかし田中は池田が行為功利主義者なのを知っている。池田が事前の合意を守る理由はいささかもない。池田はこのとき田中の行為予測に依存して期待効用を最大化する、しかし田中もまた池田の行為を予測し……と無限後退に落ち込む。


 このときにシェリングはFocal Pointという考えを提起した。田中も池田も共通の信念として左にいくと信じている、というわけである。例えばいまから田中は池袋の本屋にいくのでそこで会おうとだけいっても、勘のいい読者はジュンク堂の地下1階のマンガ売り場にいることを選ぶだろう。


 しかしこの左にいくことがFocal Pointだとしても、それが左にいくべきであるという結論には必ずしも直結しない。だが、「合理性の共有知識」を少しだけ緩めるとこの左にいくという行為が“合理的”となる。つまり彼らが人間は左を必ず選ぶという不合理なことを行う(=完全に合理的であるという共有知識を採用しない)ことを共有知識として保持しているがゆえに合理的なプレイヤー(田中、池田)は協調して道を通ることに成功するのである*1


 このように「合理性の共有知識」の仮定を緩めることが道の通過という実に単純な協調ゲームを解くことに役だつのである。これをサグデンは合理性の拡張としてとらえているようである。他にも自滅型ゲームの説明があるが今日はこんなところ。ところで合理性については他に本棚に例のノージックの本があった。これもそのうち興味でたら呼読んでみようかな。


The Nature of Rationality (Princeton Paperbacks)

The Nature of Rationality (Princeton Paperbacks)


 ところで問題、上記Focal Pointの議論を念頭に、今日、田中は映画を観にいくといって出かけたとすると、いったい彼は何を見るのか?

*1:ほかに田中君と池田君がチーム「田中くんと池田くん」をつくればこの道を通る問題はチームの期待効用最大化として解ける