論説「「悪い円安」で金融緩和を止めれば長期停滞に逆もどりする 」by田中秀臣in SankeiBiz

新しい論説です。円高シンドローム、ソロスチャートなどの話題から「悪い円安」論を批判しているものです。

 

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高橋洋一教授(嘉悦大学)の最新刊『プーチンショック後の世界と日本』(徳間書店)は、現在のコロナ禍とウクライナ戦争のダブルショックに直面する世界と日本経済の動向を考える上では必読の時論だろう。さらに日本経済では、岸田政権の“令和の検討使”的リスクも合わせて考えるべきだろう。つまり岸田政権の経済危機に対する無策に近い姿勢である。

 

高橋教授と最近、対談する機会を得た。高橋教授とは2020年に共著で『日本経済再起動』(かや書房)を出して以来の本格的対談になった。興味津々の内容は、月刊『WiLL』に近々掲載予定である。

 

この対談で話題になったひとつの論点は、現在の「悪い円安」論である。この問題については前回の連載でも書いた。新聞やテレビのワイドショーなどでは、「行き過ぎた円安を止めよ」「円安を止めるためには日銀の金融緩和を停止するのが正しい」などという意見を見かける。

しかしマスコミや一部の識者たちが言うように、「為替レートを目的にして日本銀行が金融政策を変更するのは下策中の下策」というのが、高橋教授や私の強調するところである。ちなみに2人だけの“特殊な”意見ではない。

例をいくつかあげよう。著名な経済学者でもあるローレンス・サマーズ元米財務長官は、最近のテレビ番組で、高インフレに苦しむ米国と低インフレ状況の日本とでは当然に金融政策のあり方が違うと強調し、日本では金融緩和の継続が正しいと語っている。

またフィナンシャル・タイムズの社説(「円安、日銀には物価『2%目標』達成の好機」)はさらに具体的に「悪い円安」=「金融緩和の停止」に手厳しい批判を展開している。同紙の社説では、岸田政権が世論などの圧力で、円安抑制と金融引き締めに転じることを「百害あって一利なしに近い」と断じている。

 

そもそも「悪い円安」の議論の背景には陳腐な為替レートについての見解がある。現在のような短期での為替レートの変動を正確に論じることができる理論はないことが知られている。しかしマスコミでは、日米の金利差で円安ドル高を説明しているのが一般的だ。あるいは経常収支の赤字転換の可能性でいまの為替レートを論じる人たちもいる。

 

これらは経済学的には根拠に乏しい。そもそも短期の為替レートは「ランダム・ウォーク」の典型だ。これは為替レートが現在の値からまさにランダムに上下動することを意味する。その正確な予測は困難である。これは堅固な事実である。

 

個人的には、ニュース解説で、もとになる経済記事が「日米の金利差で、米国の金利が日本よりも高いのでドルが買われ、円が売られて、その結果、円安ドル高になる」と書いてあるのを、金利差ではなく「日米の金融政策のスタンスの違い」と言い直している。

この日米の金融政策のスタンスの違いは、まだ金利差や経常収支に注目する手法よりは使える。例えば、有名なものとしてはソロスチャートがある。これは世界的に著名な投資家だったジョージ・ソロス氏の名前をとっている、日米のマネタリーベースの比率と現実の為替レートの推移を相関してみるものだ

 

マネタリーベースは日米の中央銀行が実際にコントロールしている貨幣の量だ。この政策的に操作している貨幣の量の動向はまさに「金融政策のスタンス」として理解できる。以下の図は、日米マネタリーベース比率と為替レートの推移をみたものだ。

 

 

日米マネタリーベース比率が増加すれば(≒米国を一定とすれば日本の貨幣増加)、円安が加速し、他方で比率が減少すれば(≒米国を一定とすれば日本の貨幣減少)、円高が進行している。両者の相関係数は0.64で高いものだ。

ただしこのソロスチャートも無敵ではない。特に日米の中央銀行の政策スタンスが変更されたときには、ソロスチャートでは十分にカバーできない。何人かのエコノミストたちも同様の指摘をしている。今回のように連邦準備制度理事会FRB)が金融引き締めスタンスに転換した前後では、ソロスチャートは単純には使うことはできない。修正ソロスチャートが提起されているが、これからの研究のフロンティアである。

 

短期的な為替レートの予測が難しくても、為替レートに主眼を置いた金融政策の「百害あって一利なし」は明瞭にわかる。特に日本のバブル発生から長期停滞はその重要なエピソードだ。

1985年のプラザ合意直後から、日本は円高傾向が顕著になった。当時の米国は貿易赤字問題をドル安で解消できると信じていた。そのため各国に政治的圧力により協調的なドル安各国通貨高政策をとるように促した。

日本はその米国の力にもっとも従順に従い、金融政策を対ドルの為替レートに割り当ててしまった。要するに当時の「悪い円安」はアメリカの影で実行された。その結果は、日本経済、要するに国民の生活を顧みない金融政策となって現れる。80年代後半はバブル経済が引き起こされ、また90年代はバブル崩壊と長期停滞の始まりである。この為替レートを政策目的にした日本銀行の政策を「円高シンドローム」と名付けられている(『ドルと円』ロナルド・マッキノン 、大野健一)。

 

米国の貿易赤字の対象国が、日本から中国に移行した21世紀になってからもこの円高シンドロームは続いた。下図をみれば明らかに、購買力平価(長期的な為替レート水準=日米の物価水準の比率)を天井にして、実際の為替レートがいかにも巧妙にコントロールされているかのようだ。日銀は決して認めなかったが、ドル円レートが日銀の政策目標にどかんと居座っていたことがわかる(詳細は『平成大停滞と昭和恐慌』安達誠司田中秀臣)。

 

90年代以降から2012年までの円高シンドロームは、日本の長期停滞の時期である。デフレは深化し、雇用は悪化、日本の現実と潜在的な成長率は大きく奪われた。いわゆる「失われた20年(プラスアルファ)」といわれる状況は、円高シンドロームと完全に重なる。その主因は、日本銀行が為替レートを政策目的に入れていたからだ。

アベノミクス以降は、この円高シンドロームは終わった。雇用や成長率がそれ以前よりも大きく改善したのは自明だ。いまの日本のマスコミや一部の識者たちは、「悪い円安」を主張することで、また日本銀行に国内経済を無視した、為替レートありきの政策に戻せ、といっているに等しい。

先のフィナンシャル・タイムズでも指摘されていて、また高橋教授と私の対談でも、岸田政権が日銀に金融引き締め=円安退治を促すリスクに特に注目した。

特に参院選前から来年の日銀の正副総裁人事が大きなポイントになる。ここで政治が間違え、日銀が悪しき政策転換をすれば、日本はまた長期停滞に陥るだろう。