2010年に掲載されたものだが、研究文献探しの途上で見つけて拝読。とてもいい講演録。福澤諭吉の(当時は西南戦争で「国賊」扱いされていた西郷隆盛への)友情を、私情ではなく「公」の方にウェイトを置いて考える。
公智公徳に魅かれるもの同士の友情、そのような人間同士の交流の在り方が、デモクラシーの基礎だと示唆している。いろいろな関連論文をあげていてそのこと自体も興味深いのだが、特にジャン・ルノワールの『大いなる幻影』をテキストに読みこんだところが面白い。実はこの講演録を読むまでこの名高い名作を観てなかった。DVDで廉価版があるのでそれを購入して見た。
猪木先生の分析を基にして、自分なりに映画『大いなる幻影』を読み解くと、公智・公徳という次元を理解する者同士の友情(フランス軍大尉と収容所長)と私智と私徳で結びついている二人(マレシャルとロザンタール)の友情、そして両方の断絶(大尉とマレシャル)といったいくつかの対比・対照関係が面白い。
猪木先生の講演録は主に公智・公徳の友情(貴族階層出の二人)に焦点をあてたもので、後者のふたりの私徳の友情そして前者との断絶は触れられていない。さらにこれに最後のドイツ人女性とその娘とマレシャルとの交情は、映画では暗に大尉の言及されただけの彼の家庭との対比が、さらにいっそうマレシャルと大尉の人間関係のとらえ方(その一部としての友情の在り方)についての差異を浮き彫りにしている。
大尉はマレシャルたちの逃亡を助けるために「犠牲」になることで公徳を示したことになるのだが、他方でマレシャルの方は大尉のこの「犠牲」を見ていないのはもちろんだが、それについて考えをめぐらすことも避けている。この「無視」は興味深い態度だ。
福澤の話に戻すが、世間の「無視」ないし「国賊」扱いに対して「抵抗」のもつ意味を積極的に西郷の中に見出し弁護し、その意義を見つめた福澤の西郷への「友情」というのは、マレシャル的な世界でどのような意味をもつのだろうか? つまりマレシャルと大尉は互いに感情移入に失敗していた。理解することが不可能だった。大尉の「犠牲」や、また大尉と収容所所長の「友情」を、マレシャルは理解できなかったろう。マレシャルたちは生き残り、映画でも示唆されているが、大尉=収容所所長的な世界(猪木的解釈では、公智・公徳の世界)は滅びることが示唆されていた。
公智・公徳が友情の基礎であり、それがデモクラシーのまた基礎でもあるならば、『大いなる幻影』がテキストとして示唆しているのは、そのような基礎をもつデモクラシーの危うさ、本来的な滅びの宿命への暗示ではないだろうか?
ここには一層深く考えてみたい論点がある。
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