マンガ批評界の「派閥争い」が一読明瞭

 関東に住んでて、特にマンガ批評界にコミットしていないけれども、間接的には近いところにある僕のようなアマチュアには、夏目房之介氏らを中心とするグループの発言や行動は遠くから拝見していると、かなり「政治的」あるいは「ドメスティック」なものにみえる。僕は「なるべくこの人たちとは関わらないでおこう」とマンガ史研究会もマンガ学会も誘われても入ることはなかった。これからもないだろう。


 マンガ批評家たちへの具体的な批判は今度出るという『マンガ論争勃発2』でも喋った。ただできれば当事者からもっと明瞭な「政治」的な発言や傍証がほしかった。しかし今回、竹内オサム氏の『本流!マンガ学』を読むと、事情を知らない外部の人間が読めば一読瞭然に、夏目房之介氏やそして伊藤剛氏らを含む「グループ」とでもいうべきものが純然たるマンガ批評以外の思惑で動いているんじゃないか、ということが示唆されている(49、51、第2章の3丸ごと、96頁以降の多くのページ、特に105頁、109頁、さらにユリイカ関連以下ほか)。これは本書を虚心坦懐で読んでもわかることだ。つまり竹内氏のこの本はそういう「グループ」存在の資料として使えるということだ。僕は「ああ、やっぱりそうなんだ」と納得してしまった。


 しかも竹内氏自身もどう贔屓してみても、同志社大学や個人的な同人誌を背景に、竹内グループみたいなもの、あるいはは竹内「世代閥?」をつくっていて、この本は外部のなにも事情を知らない人が読んでも、なんだかマンガ批評そのものよりも、「夏目・伊藤グループ」対「竹内グループ」の感情的ないし、政治的な派閥争いみたいなものとして読めるだろう。そうすると本書の題名でなぜ「本流」という言葉が書かれているのか、これもよりはっきりと意図がわかる。


 その意味で本書は僕のようなものには、従来からの疑問(政治的なグループの存在範囲への疑問)が氷解したことで貴重だが、本書を読んでマンガ学を始める気になるかどうかはかなり疑問である(そのためには少なくとも巻末のブックガイドなどは97年当時のものではなく今日までも含めたものにすべきであったろう)。


 そしてこの両「グループ」の争いは、今後、大学アカデミズムを基礎として行われるのだろう。しかしマンガ批評がほとんどろくな手法をもっていない中でのこの種の争いは、批評の争いではなく、単に人間抗争、大学間・研究グループ間の本書で書かれているような感情的対立、メディア利用の巧緻など、およそ専門家以外には益の薄いものをめぐる争いにしかならないであろう。まったく醜いかぎりである。

本流!マンガ学―マンガ研究ハンドブック

本流!マンガ学―マンガ研究ハンドブック

(補遺)あと「マンガ学」の範疇から、ほぼ完全にアメコミやBD研究が欠落している。日本語の文献もそうだが、外国の文献も。その意味でも本書は「本流」という言葉は、マンガ学の基本というよりも、上に書いた意味で理解すべきであろう。