マルクス主義疎外論の本質とジェノサイドの可能性

 松尾さんからの引用:「疎外」とは何かということについては、ご引用いただけていない、拙著のこの説明が一番わかりやすいと思います。「「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭の中の観念が人間から勝手に離れてひとり立ちし、生身の人間を縛りつけて個々人の血の通ったくらしの都合を犠牲にしてしまうこと」です。
 第6章では、ゲーム論を使って説明しなおしていますので、経済学のわかる人向けに言い換えると、もっとみながよくなれるやり方があるのにナッシュ均衡に陥ってそうなれない状態、あるいは、状況の変化によってはそういう状態に陥りかねないシステムのことです。:(引用終り)

 わかりやすいというよりもこれだと、観念のジョジョ立ちしている人間そのものを変えるか(人間性レジーム転換=人間性の可塑性の導入)、人間はそもそも観念もたないほうが最適という選択肢は排除できないよね。

 例えば個々の家庭や個々の友人関係は、人々に「考え方」や「思い込み」や「理念」等などを植えつけてしまう。だからそういった「ハラスメント」や「カルト」の巣窟である個々の家庭や個々の友人関係などを破壊して、「疎外」のない「自由の王国」(エンゲルスの言葉)を作ろう、という考えを排除できないというか、それを必然的に要請してしまうでしょう。これこそポル・ポト的な発想につながる一番やばい話じゃないのかな。そんな「自由の王国」なんか彼岸にしか実際には成立しないから、それを現世で追及すればポル・ポトのときみたいにみんな本当にあの世行きにならないとかなえられない。

 疎外論のこういったヤバイ側面(ヤバイと感じない人はこのエントリー読んでも得るところなし)は疎外論自体に頑丈に基礎づけられていて、それをちょっと杉原四郎先生の要約を利用してみておこう。

「労働は、元来、「活動する自然的本質存在」としての人間にとって、人間の本質を実現し確認する生命活動であること、その労働が資本主義社会において極端な疎外に陥り、人間の全面的自己疎外を結果していること、この労働を本来の姿に回復させるためにはプロレタリアートの解放は同時に人間そのものの解放と人類的社会の建設の出発点であること、およそこうした思想がマルクスの経済学研究を基礎づけた思想」(杉原四郎『経済原論?』157頁)。

「活動する自然的本質存在」というのは、簡単にいうと「外的強制にわずさわれないで自由に自分の時間を処分できる存在」。もちろん人間の有する自由に処分できる時間は限られている。マルクスは『経済学批判要綱』の中で「時間の経済、すべての経済は結局はそこに解消される」として、協同社会による合理的な時間配分の必要性、生産力の発展による労働時間の節約と、それによる自由時間の増加による人間の可能性の発展を考えた。かぎりある時間の中での人間の欲求と労働とがせめぎ合い、その両者のせめぎあいを通じて人間の可能性の実現、これがマルクス経済学の核心である。

 ところで「疎外」にはもうひとつ興味深い歴史貫通的な「疎外」が存在する。それは先の時間の経済という枠内で再び議論できる。それは杉原四郎によればサルトルの「原始的疎外」に通じる問題である。

 時間は有限である一方で、欲求・欲望・目標は無限である。それゆえここで時間資源の「稀少性」の問題に人類は直面する。例えばある人が「健康でいたい」という目標のために「禁煙」を立てる。そのため禁煙セラピーにかかるかもしれない(それは一定の時間資源を利用するだろう)あるいは禁煙の努力のために一定の精神エネルギーを浪費するかもしれない。

 ただ単に「たばこを吸いたい」という自分を抑えることがなんの時間資源の利用も生み出さないと考えることは不可能である。すでに「たばこを吸いたい」あるいは「たばこを吸わないでいたい」などと考えること自体が時間の経済において費用を生み出すのだ。そしてこの費用は彼個人が償うのではなく、社会全体がその総時間の中で償わなくてはいけない問題になっている。

 ここで単なる個人の「葛藤」にすぎないものが、時間経済ではまさに「疎外」として現れている。したがってポル・ポト的な社会ではこの単なる個人の「葛藤」にしかすぎないものが、まさにそれゆえに社会全体への「死の脅迫者」(社会的な時間資源の稀少性を悪化させるもの)として問題視され、つねに個人はその内面の「葛藤」、あるいは本当にとるにたらない些細な感情までも問題にされてしまうのである。

 ポル・ポト政権時のエピソードをみれば誰がどうみてもすでに資本主義社会ではないのにもかかわらず、個人は些細な行為、ささいな感情の表明をもって死に追いやられた。その理由は、個人の内面の「葛藤」さえも歴史貫通的な時間経済の中で原理的に「疎外」であり、それを無化することが「自由の王国」に求められているからである。そしてそんな内面の「葛藤」がない人間など死者にしか求めることはできえないだろう。これが大量虐殺を抑制できないメカニズムのマルクス主義がもつ核心部分である。

松尾さん曰く:山形さんは、「欲望」「欲求」「目標」がすべて「疎外」の図式にあてはまってしまうとおっしゃっていますけど、違います。「健康でいたい」という目標のために、「禁煙」という観念を立てて、「たばこを吸いたい」という自分を抑えることは、「疎外」ではないのです。こういうのは、長期的な欲求と目の前の欲求の対立にすぎず、「疎外」ではなくて「葛藤」です。仮にたばこが健康に悪くないということが証明されたとして、そのあとになっても、なおも健康のための禁煙の観念にとらわれ続けてストレスを感じていたら、そのときはじめて「疎外」になるのです。:

 というわけで僕は(上の松尾さんとは異なり)山形さんの意見の方がこのマルクスの「疎外」論のバカらしさと、それを愚直に真にうけた社会の恐ろしさを表現したものとして支持する。


 つうか激しく疎外論は時間の無駄な議論なのでいい子はもっとちゃんとした議論を学んだほうがいいよ。