杉原四郎の自由時間論

雑誌『環』の杉原四郎追悼特集に寄稿したもの

杉原先生の自由時間論

 本誌に求められた課題は杉原先生との個人的な思い出だが、中村宗悦さんがすでにふれられることもあるし、また先生の著作集第三巻の月報「杉原四朗先生と現代経済論戦」に詳しく書いているのでここでは杉原先生から受けた学術的な影響に絞って稿を書いてみたい。学術的な影響としては、本来ならば河上肇と福田徳三、そして経済雑誌研究に関わる日頃からのお手紙を通じたご教授を書くべきかもしれない。ただそれらの研究テーマについては、近いうちになんらかまとまった形で杉原先生から得た影響も含めて自分なりの研究成果という形で返礼すべきものと思っている。いま私が書くつもりなのは、杉原先生のマルクス研究、特にその経済本質論についてである。先生の経済本質論は、また自由時間論という切り口で、異なる経済制度(前資本主義的形態、資本主義経済、社会主義経済制度など)を統一的に考察する比較経済体制論的ともいえる試みであった。

 マルクスの有名な『経済学批判要綱」の中の一文ー「時間の経済、すべての経済は結局そこに解消される」に杉原先生の比較経済経済論的な試みもまた集約して表現されている。杉原先生の自由時間論は、さまざま著作に詳論されているが、何か代表的なものを一冊ということならば、『経済原論Ⅰ−「経済学批判」序説ー』(同文館、1973年)を挙げることができる。この本は題名にも記されている通り、杉原先生が経済制度をトータルにどう考えているのか、そしてそれが経済思想・経済思想史研究(マルクス、ミル、河上肇、大熊信行、白杉庄一郎ら)とどうつながっているのかを明瞭に論じた名著である。そこで先生は以下のように「時間の経済、すべての経済は結局そこに解消される」の意義を書かれている。

 「こうした主張は、人間生活にとって最も本源的な資源として時間があるということ、労働時間がその時間の基底的部分を構成するということ、そして生活時間から労働時間をさしひいいたのこりの自由時間によって人間の能力の多面的な開発が可能になること、したがって労働時間の短縮が人間にとって最も重要な課題とならざるをえないこと、このような認識をまってはじめて成立することができる。そしてこのような認識にもとづいてはじめて、労働の生産力の発展が人間の歴史をつらぬく基本方向であり、総労働時間の欲求に応じた配分が、各社会体制を通ずる根本法則であるという展望もひらけうるであろう」(前掲書、53頁)。

 人間の労働が本来は自分の本質を実現する生命活動でもあるにもかかわらず、ワーカホリック(仕事中毒)あるいは過重労働などで自分の生命さえも危機に陥るような環境がまま観察される。そのような労働の「疎外」状況を反省するために、杉原先生はひとつの視座としてマルクスの自由時間論を重視したのだろう。この自由時間論はすでに指摘したが、先生の中では資本主義経済を超えた経済の「本質」そのものであった。例えば資本主義経済が止揚された後にもこの自由時間は重要である。無用な労働を社会的にどう節約するか、あるいは社会成員でどのように労働を負担するか、その合理的なルールを見出すことが、制度貫通的に重視されている。

 このような自由時間論は、かってバートランド・ラッセルが『怠惰への讃歌』(1932)やジョン・メイナード・ケインズが「私たちの孫たちの経済的可能性」(1930)で示唆した余暇社会のビジョンと共通している。ラッセルによれば一日四時間労働こそが、人々の労働を困苦から楽しみに変換し、人間の「解放」につながると主張されていた。このようなラッセルの考え方は、大正デモクラシーの時代に「日本のラッセル」と表現された福田徳三にも影響を与えた。福田が大正期に「解放の社会政策」を唱えたのはラッセルの影響を抜きには考えられない。他方で、労働時間の短縮とそれによる人間らしい生き方の実現を「理想社会」のあるべき姿としたのは、若き頃の河上肇であった。先生の編集された岩波文庫の『河上肇評論集』にはその河上の論説「経済上の理想社会」(1910)でその意見をみることができるし、また河上のワーキングプア論ともいえる『貧乏物語』(1917)にも河上の自由時間論をみることができる。ここで河上と福田が自由時間論という見取り図の中で向き合うことになり、おそらく杉原先生が河上と福田の比較を重視されたのもこの自由時間論への関心に基づくのであろう。

 しかし他方でこのような自由時間論にはいくばくかモラル的側面が強いのも事実である。例えばジョン・スチュワート・ミルもまたこの自由時間論を述べているのだが、彼は人間の進歩の最終段階としてこの余暇社会を想定していた。そこでは経済的な進歩が定常状態を迎え、経済的な問題が分配問題にしぼられてくる。例えば一定のチョコレートケーキの大きさをいかように切り分けるのかとういう「分配」の問題であり、その裏面では当然にどのようにケーキをみんなで生産するのがフェアなのか、という問題もからんでくる。ケーキの生産と分配の道徳的なルールをどう構築するのか、社会の成員みんながゼロ成長の中で納得できるルールがあるのかどうか、それがミルから学んだ先生の大きな関心でもあった。

 この点は今日、低成長論や定常社会論を唱える人々のモラル的な論述の構えとも共通しているかもしれない。そしてケインズ的な未来のビジョンとしてならともかく、今日の経済状況でそのような一定のパイを絶対の前提とすることに、私は大いに違和感を覚えているのも事実である。杉原先生であるならば、現在の長期的な停滞をどのように考えたのであろうか。それに対して私ならばどう答えるであろうか。この点でも私と先生のやりとりは、先生の亡きあとも続いていくだろう。

杉原四郎著作集 (3)

杉原四郎著作集 (3)