谷川俊太郎・内田義彦『言葉と科学と音楽と』


 ご恵贈いただく。どうもありがとうございます。本書は三部構成になっていて、音楽論、広告論、そして日本語論について、詩人と経済学史研究者との真摯な対話の記録。いまの僕の関心に合う音楽論と日本語論を含めて、あっという間に読了。

言葉と科学と音楽と―対話

言葉と科学と音楽と―対話


 以下、簡単な感想とともに僕が本書で魅かれたいくつかの点をご紹介。

谷川「これは音楽にかぎらないことかもしれませんが、ロマンチシズムみたいなものが人間の自我を無制限に拡大していった結果、いわゆる近代の芸術は人間を袋小路にまで追い詰めてしまった、という面があるような気がするんです。そしていま、みんなそこから出て行きたいと思いながら、でも、なかなか、昔のような共同体を発見できないでいる」

 谷川はバッハの音楽に「(教会の)秩序の反映」=安心感を見出す。そしてこのバッハ的世界から脱してきた「オレが」的世界としてベートーヴェンをとらえる。

谷川「で、その「オレが」というふうに悩むということが、人間をある秩序から逸脱させて、ある意味では人間を人間以上に過信させたようなところがあると思うんです。‥‥もっと音楽そのものにひそんでいる、秩序を作ると同時にどこか人間を流れ出させてしまう、もっと違うところへ導いてしまう必然性というかな、それは一方ですばらしい宗教音楽を生むんだけれど、そうではない方向へ行った場合、なにか人間を不定形にしてしまいそうな、そんな怖さを感じるんですね」

 音楽の秩序と非秩序(オレが性の過剰)という二面性を、今度は日本語の問題(谷川らの編纂した『にほんご』を通じて)として読み解くと本書のふたりの対談はさらに興味深い。ちょっと長いが引用。


 内田は「教えるこのの微妙な緊張関係」に注目している。谷川は『にほんご』の編纂の経験から次のように述べている。

谷川「「何々しなさい」という言い方がありますね。それはどうしても避けようということで、僕らもずいぶん苦労しました。つまりは、そう言わずに、ある具体的なものを提示してそこから子どもに気づかせたいって言うか‥。教える、教わるという上下関係じゃなくて、先生と生徒が互いに刺激しあっていく関係ができればいいと思うんです。ただ、そうなると、結局、「Let's us」、「何々してごらん」みたいな言い方になって、それもちょっといやらしいかなって感じもしちゃう(笑)」


 内田もこの「いやらしい感じ」がお役所用語に通じていること、「よく「観察してみましょう」というような言い方をするでしょう。自分で考えてみようとか」として、谷川とともに胡散臭さが倍増するやり口であると両者共鳴しはじめる。ここらへんは僕が非常に面白く読めたところ。内田は、科学的に「観察してみましょう」と子どもに書かせた観察日記が面白くもなんともなく、むしろ自由な身辺日記の方がいきいきしていて、むしろそんな「観察してみましょう=自分で考えましょう」日記は科学の眼をも奪ってしまう、と書いている。


 ここらへんの胡散臭さと危険性は、このエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080402#p3、で言及した連合赤軍事件のリンチ構造と類似しているのではないか?


 教師ー生徒という「秩序」を逸脱した「オレが」的方向に教育を進展させるときに陥るパラドクスを実は、この谷川と内田の対談は示唆しているようにも思える。谷川も内田も「秩序」だけではなく、「オレが」が重要である、と思うものの、ではその「オレが」を延ばす方向を間違えればとんでもないことになる危険性も認識している、といえるか。この解は難しく、旧来の「秩序」にどう抗するのか、を谷川は『にほんご』で試みようとしたと述べている。それは「秩序」を単に「オレが」方向にのみ伸ばしていくことではなく、やはりなんらかの「秩序」=「規範」を模索していく方向のようではある。谷川はこのなんらかの新しい「秩序」を子ども達の日常言語に求めたい、としている。


 図式化してい書くと

 教師(上)−生徒(下)の「秩序」による日本語教育←反対

 「オレが」的日本語教育 ← (お役所的、面白くないなど)胡散臭い方向にいくかもしれず

 子ども達の日常生活に立脚した日本語教育 ←賛成


 もちろんだからと言って子ども達の日常をそのまま教えるのでは意味がない。ここで日常生活を抽象化していくこと、その際には定義をきちんとして問題をはっきりさせながら、(日本語の問題も含む広義の社会問題を)考えていくことが必要。それが日本社会という定義のあいまいなまま問題の議論がすすむ風土を批判的にみる視座も提供していく(すごく大変なことだが、とふたりで合意)。


 内田「大体、議論が議論として論議されることが非常に少ないと思うんです。つまり、議論というのは、客観的なものでしょう。だれが言い出そうが同じことだと思うんですが、会議なんかでも、議論そのものより、この議論はだれが提議したか、ということへの関心のほうが議論そのものよりも強い(笑)。そうすると、あいつはもともとどういう人間だ、とかね。そんなことに話がいってしまって。関係ないんです、提議内容とはね。で、それを否定することは、その提議案が否定されることよりも、それを提議した人が否定されることになる。だから片方も簡単に引き下がらないんですよ(笑)」


 おお! これは得難い指摘 笑。特定ブログとか小飼弾氏のブログの一部の記事とか読むとまさにその戦略ではないだろうか*1


 しかも内田は論理で議論すると日本では「智に働けば角が立つ」といっていて、これは日本国民感情からいってもむしろ「あいつはもともとどういう人間だ」(例えば内田はマルクス経済学の影響大で、おまけに経済学史家だ)という風潮の方が支持されやすい、ことをわが事のように述べている。


 確かにこの種の論法を多用するのはネットなどではアルファブロガー(の一部)だ。人気を得やすいのだろう。発言の検証は面倒だが、出身の検証は一目瞭然だからだ。その反面で、提議内容自体ではなく、「俺は博士号取得で経済学者である」などということが説得力をもってしまうことも内田は示唆しているのだろう。苦労されましたね、内田先生! 苦笑)。


 谷川も定義をきちんとした論理的な議論よりもそこは曖昧にしたまま、(経済学史家だなどと帰属をもって批判するようなあいまいな議論に)ほとほと愛想を尽かしている趣旨の発言をしていて、さらに面白い。


 僕は内田義彦氏の経済学的見解の多くに反対しているのだが(今回も谷川氏の主張にこそ共鳴している点が多い)、それでもいまの日本に最も不足しているのが、内田がしばしば述べた感性豊かな分野(今回は詩や広告の世界)と切り結ぶ経済学のあり方を求める態度ではないかと思う。内田義彦の生き方が経済学者のモデルとして復活すればいい。資格にこだわるならば(笑)、経済学史家のモデルでもいい。

*1:「ダメ出しで終止してしまっている。「それでは、よい議論とはかくあるべきか」という提言が見当たらないのである。これは、著者の飯田氏に限らず学者という学者に共通した宿痾で、特に経済学者に顕著に見られるというのは私の偏見だろうか。」という一文。偏見ではないでしょうか。飯田氏の本にはまさにダメな議論はどうダメなのか、ということを論じる際のよい議論の仕方が全面展開されているのですが