ビートたけしの経済学

 さてみんなの期待に反してスルーするわけだが 笑)。


 ところで『ブルータス』の素人だけの日本経済入門なんだが、なかなか反面教師として使える素材に思えてきた面もある。正直読むとクラクラする感じもするのは確かである。この特集では「経済学者・評論家」が祭り上げられていて、そして貶められている。もちろん彼らが経済学者・評論家として具体的に誰をさし、どんな発言を具体的に指しているのか一切問われてはいない(最後の座談会だけは別)。


 その意味では部数稼ぎや注目を浴びたいために、「経済学者・評論家」をスケープゴート、ネタとされているだけなわけである。対して、彼らの依ってたつものは、彼らが築き上げたなんらかの社会的名声や権威であり、その体験からの物言いである。具体的な批判の対象が不鮮明であり、なおかつそれを批判するのが、単に「権威」である場合にまともな議論はできはしない。


 ただこういう特集をみれば人間、権威に弱いために、同誌特集は僕も思っているが「ひどい内容だ」という意見はおそらくリアルには少数派かもしれない。


 例えば何度かここでも言及しようかと思ってそのたびに止めていた(今回の特集でも出てくる)橋本治氏の新刊などは、たぶん僕も含めて凡百の経済学者が束になってもかなわない影響力を持っているだろう。もちろんそれを批判するのは簡単なのだが、『エコノミストミシュラン』や『経済論戦の読み方』などでプロのエコノミストを批判したようなやり方ではだめだといまの僕は思っている。


 つまり「経済学者・評論家」の「権威」や智恵を利用して(凡庸にいけばそれが一番簡単だ)、「やっぱ素人はまったくわかってないよ」とやるのはあまり面白いやり方ではないように思えている(別にそれでもいいししばしば僕もその手法と同様なものを利用するが、単純にこのやり方だと、自分に得るものがないという意味での生産性がないのは日ごろの経験でもわかるので。つまり自分の出超であり、相手から得るものがない)。


 自分が批判することで何か得るものがあるようなビートたけし橋本治批判の仕方はないのか? それを最近考えている。言い換えれば、彼らの主張になんらかの「理」を見出し、それを前向きに解釈するのが、この種の非エコノミスト批判の一番の近道で、批判する僕にも面白いものになるのかもしれない。それには自分がこのビートたけし橋本治らに対してなんらかの「作品」」で応じなければいけないだろう。宣伝ではないが(まだ書いてないのでせいぜい書くためのインセンティブを得ようとしているだけだが)、おそらく次回作か次々回作はまさに彼らのために一書を捧げるに違いない。


 プロの経済学者(といっても学会も専門も関心も次元が異なる人々の集団である)の批判よりも、ビートたけし橋本治的経済論批判の方が格段に相手として難しいし、やり方によって面白い、というのは僕もそうだし、ミシュランや『経済政策形成の研究』に関わった人たちの概ねの合意でもあるだろう。例えばネットでもちょっとした雑誌などの短文においても、経験や能力の欠ける経済学者であっても、安易にエコノミスト批判をして注目を稼ぐことはすぐにできる。しかしこの種の作業も経験と勘が必要であり、論理以前の単一の「学界の権威」を持ち出してもなんの意味もない(か面白くない)。だが僕もそろそろいろんな意味で得してるよりも不利益の大きい(苦笑)現代経済論への批判作業もそろそろ10年近く。だいぶ有益及び、いらぬ経験も積んできたのでこの一番困難な作業を実行する準備をしてもいいころかもしれない。


 なお以下の本は再三、finalventさんに言及いただいているが、手前味噌(このブログもそんな味噌だが)で恐縮だが、時間が経つにつれて以下の論文集はまさにいろんな意味で、上記の「たけし・橋本」的な言説を批判する作業としては分水嶺的な(始点になる)位置にあるなと思う最近である。


 


 ところで巻頭のビートたけし氏の発言、特に冒頭の一言だけは面白く感じた。


 「経済学者を俺は信用していない。なぜ信用しないかというと、経済学者は未来の経済を予測するというが、結局過去の歴史や政治社会の状況や出来事からしか未来の経済を推測できないからだ」


 僕は自分は歴史的経済学者であると思っているので、実はこのビートたけし氏の認識は経済学の現状への認識としては誤りであるとは思うものの、他方でまさに彼の批判の視座(結局過去の歴史や政治社会の状況や出来事からしか未来の経済を推測できないからだ)には少なからぬ共感を感じる。

 安達さんとの共著『平成大停滞と昭和恐慌』で次のように僕らは書いている。


「 本書では、デフレの時代の日本において生まれた「実践経済学」の精神を批判的に継承し、今日の「デフレ不況」をみる「実践」的な経済分析とその処方箋を提供したい。本書の実践的な観点は主に二つある
一) 歴史的な視点の導入
二) 循環的要因と構造的要因の区別とそれに適応した処方箋の提示
である。
 第一の歴史的な視点は単に「歴史の教訓」を得るという示唆的なもの以上の意義をもつ。なぜなら経済学はそもそも大規模な実験(中央銀行が試行的にマネーサプライのコントロールを行うなど)が不可能である。したがって類似した経済環境をともなう過去の事象との比較が単なる歴史上の比喩以上の意義をもつようになる。歴史的視点を重んじることは、またプラクティカルな観点からも重要である。なぜならプラクティカルな態度とは結果が最重要視される。今般のデフレ不況と類似した昭和恐慌期において、今日の構造改革的な政策やリフレ政策がどのような帰結を生んだかを注目するのに歴史的視点ほどふさわしいものはない。
 本書では首尾一貫して昭和恐慌期におけるデフレ不況と今日のデフレ不況の類似点と相違点を明らかにしつつも、歴史の経験のなかでどのように政策論議が行われ、そしてどのような政策が採用され、その帰結がどうなったかを詳しく検証する。そしてこれらの歴史的な経験をいかしつつ、今日のデフレ不況打開の方策を考えていくことにしたい」。


 ちなみに僕は橋本治氏の本は正直読みにくくて苦手であり、山形浩生さんが橋本文体に影響を受けているということを最近知ったときに、「あ! そうなんだ(ユーレイカ!)」と思った。山形さんの文章も、人のことはいえないが、90年代にたまたま何か(バロウズクルーグマン)を読んだときに、すごく読み辛かった。いまでは馴れてきてしまい、むしろ自分の文体にも一部意識的に採用しているのだが(わからないですか、そうですか)。すでに橋本氏の本は10冊くらいこの作業のために去年から読んでいるのだが、まだいっこうに慣れない。